正直ノオト
太宰治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)虚傲《きょごう》
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 正直に言うことに致しましょう。私は、これから書こうとする小説、または、過去に於いて書いた小説の意図、願望、その苦心を、あまり言いたくないのです。それは、私の虚傲《きょごう》からでは、ないと思うのです。書いてみて、それが相手に受け入れられなかったら、もうどう仕様もないことですし、これから書こうと思っている小説を、どんなにパッションもって語っても、いまのところ私は、そんなに優秀の大傑作、書けないのが、わかっていますし、現在の私の作家としての力量も、たいてい見当がついていますし、だいいち私は、いま、もっと正直にならなければいけません。多くの作家が、身のほど知らずの抱負《ほうふ》を、無邪気に語っているのを聞いていると、私はその人たちを、うらやましく思い、生きていることが、矢鱈《やたら》に、つらく思われて来るのです。わかりますか? けれども私は、そんな作家たちを、決して拒否できないのです。
 私だって、薬を飲むときには、まず、その薬品に添附されて在る効能書を、たんねんに読んで、英語で書かれて在るところまであやしげな語学でもって読破して、それから、快心の微笑を浮べて、その優秀(と書かれて在る)薬品を服用し、たちどころに効きめが現われたような錯覚に落されて、そうして満足している状態なんですからね。効能書のない薬品なんて、絃の無いヴァイオリンみたいに、はかなく落ちつかない気が致します。効能書は、無ければ、いけないものなのでしょうね。
 けれども芸術は、薬であるか、どうか、ということになると、少し疑問も生じます。効能書のついたソーダ水を考えてみましょう。胃の為にいいという、交響楽を考えてみましょう。サクラの花を見に行くのは、蓄膿症《ちくのうしょう》をなおしに行くのでは、無いでしょう。私は、こんなことをさえ考えます。芸術に、意義や利益の効能書を、ほしがる人は、かえって、自分の生きていることに自信を持てない病弱者なのだ。たくましく生きている職工さん、軍人さんは、いまこそ芸術を、美しさを、気ままに純粋に、たのしんでいるのでは無いか。
「大デュマなんて、面白いじゃあないですか。ボードレエルの詩だって、なかなか変ったものですね。こないだ、なんといったかなあ、シュニッツラアとかいう人の
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