業をしているんじゃないのだ。僕の暗さは、誰《だれ》にもわからぬ。「どうぞよろしく」か。ああ、伸びんと欲《ほっ》するものは、なぜ屈しなければならぬのか!
 市川菊松。さびしいねえ。


 十月一日。日曜日。
 秋晴れ。初舞台。僕は舞台で、提灯を持ってしゃがんでいる。観客席は、おそろしく暗い深い沼だ。観客の顔は何も見えない。深く蒼《あお》く、朦朧《もうろう》と動いている。いくら眼を見はっても、深く蒼く、朦朧としている。もの音ひとつ聞えない。しいんとしている。観客席には、誰もいないのではないかと思った。なまぬるく、深く大きい沼。気味が悪い。吸い込まれて行きそうだった。気が遠くなって来た。吐き気をもよおして来た。
 役をすまして、ぼんやり楽屋へ帰って来ると、兄さんと木島さんが楽屋に来ていた。うれしかった。兄さんに武者振《むしゃぶ》りつきたかった。
「すぐわかりました。進さんだという事が、すぐにわかりました。どんな扮装《ふんそう》をしていても、やっぱりわかるものですね。」木島さんは、ひどく興奮して言っている。「僕が一ばんさきに、見つけたのです。すぐわかりました。」同じ事ばかり言っている。
 鈴岡
前へ 次へ
全232ページ中225ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング