政界にはいって、政友会のために働いたのだが、それは、ほんの四、五年間の事で、その前は市井の実業家だった。政界にはいってからの、五六年の間に、財産の大部分が無くなったのだそうだ。僕が財産の事など言うのは可笑《おか》しいけど、お母さんは、ひどくその当時は苦労したらしい。家も、お父さんが死んで間もなく、牛込《うしごめ》のあの大きい家から、いまの此の麹町《こうじまち》の家に引越して来たのだ。そうしてお母さんは病気になって、今でも寝ている。でも僕は、お父さんをちっとも憎めない。お父さんは、僕の事を、坊主《ぼうず》、坊主《ぼうず》と呼んでいた。お父さんに就いての記憶は、あまり残っていない。毎朝、牛乳で顔を洗っていたのだけは、はっきり覚えている。ひどくお洒落《しゃれ》な人だったらしい。客間に飾られてある写真を見ても、端正な立派な顔である。姉さんの顔が一ばんお父さんに似ているのだそうだ。僕の姉さんは、気の毒な人である。姉さんは、ことし二十六である。いよいよ、今月の二十八日にお嫁に行くのである。長い間、お母さんの病気の看護と、僕たち弟の世話のために、お嫁に行けなかったのだ。お母さんは、お父さんの死んだ直
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