業をしているんじゃないのだ。僕の暗さは、誰《だれ》にもわからぬ。「どうぞよろしく」か。ああ、伸びんと欲《ほっ》するものは、なぜ屈しなければならぬのか!
市川菊松。さびしいねえ。
十月一日。日曜日。
秋晴れ。初舞台。僕は舞台で、提灯を持ってしゃがんでいる。観客席は、おそろしく暗い深い沼だ。観客の顔は何も見えない。深く蒼《あお》く、朦朧《もうろう》と動いている。いくら眼を見はっても、深く蒼く、朦朧としている。もの音ひとつ聞えない。しいんとしている。観客席には、誰もいないのではないかと思った。なまぬるく、深く大きい沼。気味が悪い。吸い込まれて行きそうだった。気が遠くなって来た。吐き気をもよおして来た。
役をすまして、ぼんやり楽屋へ帰って来ると、兄さんと木島さんが楽屋に来ていた。うれしかった。兄さんに武者振《むしゃぶ》りつきたかった。
「すぐわかりました。進さんだという事が、すぐにわかりました。どんな扮装《ふんそう》をしていても、やっぱりわかるものですね。」木島さんは、ひどく興奮して言っている。「僕が一ばんさきに、見つけたのです。すぐわかりました。」同じ事ばかり言っている。
鈴岡さん一家も、一等席に来ているそうだ。チョッピリ叔母さんも、お弟子を五人連れて、鶉《うずら》で頑張《がんば》っているそうだ。兄さんからそれを聞いて、僕は泣きべそをかいた。肉親って、いいものだなあ、とつくづく思った。木島さんは、市川菊松! 市川菊松! と二度も大声で叫んだそうだ。提灯持ちに声を掛けたって仕様がない。恥ずかしいことをしてくれたのもである。
「僕の掛声は聞えましたか?」と自慢そうに言う。聞えるどころか、提灯持ちは舞台で気が遠くなって、いまにも卒倒しそうだったのだ。
兄さんは僕の耳元に口を寄せて、
「楽屋に、すしか何かとどけさせようか?」と通人振《つうじんぶ》った事を、まじめな顔して囁《ささや》いたので、僕は噴き出しちゃった。
「いいんだよ。春秋座では、そんな事は、しないんだ」と言ったら、
「そうか。」と不満そうな顔をしていた。
二つ目の「坊ちゃん」の時には、割に気楽だった。観客席の笑い声を、かすかに聞きとる事が出来た。けれども、やっぱり、観客の顔は、なんにも見えなかった。馴《な》れて来ると、観客の笑い声だけでなく、囁き声やら、赤ん坊の泣き声まで、はっきり聞えて来て、かえってうるさいそうである。観客の顔も、どこに誰が来ているという事まで、すぐにわかるようになるそうだ。僕は、まだ、だめだ。夢中だ。いや、生死の境だ。
役を全部すまして、楽屋風呂へはいって、あすから毎日、と思ったら発狂しそうな、たまらぬ嫌悪《けんお》を覚えた。役者は、いやだ! ほんの一瞬間の事であったが、のた打ち廻《まわ》るほど苦しかった。いっそ発狂したい、と思っているうちに、その苦しみが、ふうと消えて、淋《さび》しさだけが残った。なんじら断食《だんじき》するとき、――あの、十六歳の春に日記の巻頭に大きく書きつけて置いたキリストの言葉が、その時、あざやかに蘇《よみがえ》って来た。なんじは断食するとき、頭《かしら》に油をぬり、顔を洗え。くるしみは誰にだってあるのだ。ああ、断食は微笑と共に行え。せめてもうお十年、努力してから、その時には真に怒れ。僕はまだ一つの、創造をさえしていないじゃないか。いや、創造の技術さえ、僕には未だおぼつかない。
さびしく、けれどもミルクを一口《ひとくち》飲んだくらいの甘さを体内に感じて風呂から出た。
団長、市川菊之助の部屋へ挨拶《あいさつ》に行く。
「や、おめでとう。」と言われて、うれしかった。たわいのないものだ。風呂場の暗い懊悩《おうのう》が、団長の明るい一言で、きれいに吹き飛ばされた。木挽町《こびきちょう》で初舞台を踏むという事は、役者として、最もめぐまれた出発なのかも知れない。お前は幸福なのだ、と自身に言い聞かせた。
以上は、わが、光栄の初舞台の記である。
家へ帰って、午前一時頃まで、兄さんを相手に、夢中で天体の話をした。なぜ、天体の話などをはじめたのか、自分にもわからない。
十一月四日。土曜日。
晴れ。いまは大阪。中座《なかざ》。出し物は、「勧進帳《かんじんちょう》」「歌行燈《うたあんどん》」「紅葉狩《もみじがり》」。
僕たちの宿は、道頓堀《どうとんぼり》の、まっただ中。ほてい屋という、じめじめした連込み宿だ。六畳二間に、われら七人の起居なり。けれども、断じて堕落はせじ!
市川菊松は聖人だそうだ。
十一月十二日。日曜日。
雨。ごめんなさい。今晩は酔っぱらっています。大阪は、いやなところですねえ。たいへん淋しい道頓堀です。あの、薄暗い「弥生《やよい》」というバーでお酒を飲みました。そうして、久し振りで酔いました。酔っ
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