ですよ。
 十日ほど前、市川菊之助は、僕をレインボウへ連れて行って、ごちそうしてくれて、その時にボイルドポテトをフオクで追いまわしながら、ふいとこう言ったのだ。
「私は三十まで大根《だいこん》と言われていました。そうして、いまでも私は自分を大根だと思っています。」
 僕は泣きたかった。あの団長の言葉が無かったら、僕はきょうあたり、首をくくっていたかも知れない。
 新しい芸道を樹立する。至難である。頭に矢が当らず、手脚にばっかり矢が当る。最もやり切れぬ苦痛である。一粒《ひとつぶ》の芥種《からしだね》、樹《き》になるか、樹になるか。
 もういちど、ベートーヴェンのあの言葉を、大きく書いて見よう。「善く且つ高貴に行動する人間は唯だその事実だけに拠っても不幸に耐え得るものだということを私は証拠立てたいと願う。」


 九月十七日。日曜日。
 曇り。時々、雨。きょうは、稽古《けいこ》は休みだ。きのうは道場で、夜の十一時半まで稽古があった。めまいがして、舞台にぶったおれそうになった。歌舞伎座《かぶきざ》、十月一日初日。出し物は、「助六《すけろく》」漱石《そうせき》の「坊ちゃん」それから「色彩間苅豆《いろもようちょっとかりまめ》」。
 僕の初舞台だ。もっとも僕の役は、「助六」では提灯《ちょうちん》持ち、「坊ちゃん」では中学生、それだけだ。それなのに、その稽古の猛烈、繰り返し繰り返しだ。家へ帰って寝てからも、へんな、いやらしい夢の連続で、寝返りばかり打っていた。あんまり疲れすぎると、かえって眠られぬものである。
 けさは八時頃、下谷《したや》の姉さんから僕に電話だ。一大事だから、すぐに兄さんと二人で、下谷へ来てくれ、一大事、一大事、と笑いながら言うのである。どうしたのです、といくら尋ねても教えない。とにかく来てくれ、と言う。仕方が無い。兄さんと二人で、大急ぎでごはんを食べて下谷へ出かける。
「なんだろうね。」と僕が言ったら、兄さんは、
「夫婦|喧嘩《げんか》の仲裁はごめんだな。」と、ちょっと不安そうな顔をして言った。
 下谷へ行ってみたら、なんの事はない、一家三人、やたらにげらげら笑っている。
「進ちゃん、けさの都《みやこ》新聞、読んだ?」と姉さんは言う。なんの事やら、わからない。麹町《こうじまち》では都新聞をとっていない。
「いいえ。」
「一大事よ。ごらん!」
 都新聞の日曜|特輯《とくしゅう》の演芸欄。僕の写真が滝田輝夫の写真と並んで小さく出ている。名前が、ちがっている。僕の写真には、市川菊松。滝田のには、沢村扇之介。春秋座の二新人という説明がついていて、それから「どうぞよろしく」だとさ。あきれた。ばかにしてやがると思った。こんどの初舞台から、僕たちは準団員になる筈《はず》だという事は、わかっていたが、こんな芸名まで、ついていたとは知らなかった。なんにも僕たちには通知がなかったのだ。どうせ、でたらめに、でっち上げられた芸名だろうが、それにしても本人に、ちょっと相談してから、確定すべきものではなかろうか。暗い気がした。けれども、市川菊松という、この妙に、ごつい芸名の陰に、団長、市川菊之助の無言の庇護《ひご》が感ぜられて、その点は、ほのぼのと嬉《うれ》しかった。市川菊松。いい名じゃねえなあ。丁稚《でっち》さんみたいだ。
「いよいよ、」鈴岡さんは笑いながら、「本格的になって来たね。お祝いの意味で、これから支那《しな》料理でも食べに行こう。」鈴岡さんは、なにかというと、すぐ支那料理だ。
「だけど、こんなに大袈裟《おおげさ》になって来ると、心配ね。」姉さん夫婦は、僕の俳優志願を前から知っていて、ちょっと心配しながらも、まあ、黙許という形だったのだ。「お母さんには、まだ、知らせないほうがいいんじゃない?」お母さんには、はじめから絶対秘密になっているのだ。
「もちろんさ。」兄さんは強い口調で答える。「いずれ、わかる事だろうけど、でも、もう少しお母さんが達者になってから全部を申し上げる事にしているんだ。とにかくこれは、僕の責任なんだから。」
「責任だなんて、そんな固苦しい事は、考えなくてもいいさ。」鈴岡さんは度胸がいい。「役者でもなんでも、まじめにやって行けたら立派なもんだ。十七で、五十円の月給を取るなんて、ちょっと出来ない事だぜ。」
「三十円ですよ。」僕は訂正した。
「いや、三十円の月給なら、手当やなんかで、六十円にはなるものなんだ。」役者も銀行員も、同じものに考えているらしい。
 鈴岡さん夫婦、俊雄君、それから兄さん、僕、五人で日比谷《ひびや》へ支那料理を食べに出かけた。みんな浮き浮きはしゃいでいたが、僕ひとりは、ゆうべの寝不足のせいもあり、少しも楽しくなかった。稽古の地獄が、一刻も念頭より離れず、ただ、暗憺《あんたん》たる気持であった。道楽で役者修
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