うして、ちっとも教育の無い少女でも、これだけの仕事が出来るのだ。芸術家にとって、めぐまれた環境というのは、かえって不幸な事ではあるまいか、と思った。僕も早く、現在の環境から脱《ぬ》け出して、劇団のまずしい一研究生として何もかも忘れて演劇ひとつに打ち込んでみたいと思った。朝の四時過ぎに、やっと、うとうと眠って、けさの七時に目ざまし時計におどろかされて、起きたら、くらくら目まいがした。それでも、辛《つら》い義務で、学校まで重い足を運ぶ。
 あまり校舎が静かなので、はてな? と思って事務所へ行ったら、ここにも人の気配が無い。ハッと気附《きづ》いた。きょうは靖国《やすくに》神社の大祭で学校は休みなのだ。孤立派の失敗である。きょうが休みだと知っていたら、ゆうべだって、もっと楽しかったであろうに。馬鹿馬鹿しい。
 でも、きょうはいい天気だった。帰りには、高田馬場《たかだのばば》の吉田書店に寄って、ゆっくり古本を漁《あさ》った。時々、目まいが起る。テアトロ数冊、コクランの「俳優芸術論」タイロフの「解放された演劇」、それだけ選び出して、包んでもらう。どうも、目まいがする。まっすぐに家へ帰り、すぐに寝た。熱も少しあるようだ。寝ながら、きょう買って来た本の目次などを見る。演劇の本は、本屋にもあまりないので、困っている。洋書だったら、兄さんが演劇に関するものも少し持っているようだが、僕にはまだ読めない。外国語を、これから充分にマスターしなければならぬ。語学が完全でないと、どうも不便だ。
 一眠りして、起きたのは午後三時。梅やにおむすびを作ってもらって、ひとりで食べた。けれども、一つ食べたら、胸が悪くなって、へんな悪寒《おかん》がして来て、また蒲団にもぐり込む。杉野さんが、心配して熱を計ってくれた。七度八分。香川先生に来ていただきましょうか、という。要らない、と断る。香川さんというのは、母の主治医である。幇間《ほうかん》的なところがあって、気にいらない。杉野さんから、アスピリンをもらってのむ。うつらうつらしていたら、ひどく汗が出て、気持もさっぱりして来た。もう大丈夫だと思う。兄さんは、朝から、れいの事件で下谷へ行ったそうで、まだ帰らない。簡単には、治まらなくなったらしい。兄さんがいないと、なんだか心細い。また、杉野さんに熱を計ってもらったら、六度九分。勇気を出して寝床に腹這《はらば》いにな
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