僕は明滅するビルデングの灯を、涙で見えなくなるまで眺めていた。その時、或《あ》る紳士に軽く肩を叩《たた》かれたのだ。泣いたのがいけなかったのである。交番に連れて行かれて、けれども僕は、ていねいに取りあつかわれた。父の名が有効だったらしい。兄さんと、木島さんが迎えに来た。三人で自動車に乗って、しばらくして木島さんが、だしぬけに言い出した。
「しかし、日本の警察は、世界一じゃありませんかね。」
兄さんは一言も口をきかなかった。
家の前で自動車から降りる時、兄さんは誰に言うともなく、
「お母さんには何も知らせてないからね。」と口早に言った。
僕はその夜は疲れて、死んだように眠った。そうしてあくる日、兄さんは僕を連れて九十九里浜にやって来た。つまり、きのうの事である。僕たちは磯伝いに歩いて、日没の頃、この別荘に着いたのだ。風呂へはいり、おいしい晩ごはんを食べて、座敷にひっくりかえって寝たら、大きい長い溜息が腹の底からほうと出た。夜は久し振りで、兄さんと蒲団を並べて寝た。
「一高なんかを受けさせて悪かったな。兄さんがいけなかったんだ。」
僕はなんと答えたらいいのだろう。気軽に、いいえ僕がいけないのです、等《など》と言ってその場の形を、さりげなく整えるなんて芸当は僕には出来ない。そんな白々しい、不誠実な事は僕には出来ない。僕はただ、おゆるし下さい、と、せつない思いで、胸の奥深いところで、神さまと兄さんにこっそりお詫《わ》びをしているばかりだ。僕は蒲団の中で、大きく身をくねらせた。からだの、やり場に窮したのだ。
「お前の日記を見たよ。あれを見て、兄さんも一緒に家出をしたくなったくらいだ。」と言って兄さんは、低く笑った。「でも、そいつぁ滑稽《こっけい》だったろうな。無理もねえ、なんて僕まで眼のいろを変えてあたふたと家出してみたところで、まるで、ナンセンスだものね。木島も、おどろくだろう。そうして木島も、あの日記を読んで、これも家出だ。そうして、お母さんも梅やも、みんな家出して、みんなで、あたらしくまた一軒、家を借りた、なんて。」
僕も、つい笑ってしまった。兄さんは、僕に気まずい思いをさせまいとして、こんな冗談を言うのである。いつでもそうだ。兄さんは、僕よりも、もっと気の弱い人なのだ。
「R大学のほうの発表は、いつだい?」
「六日《むいか》。」
「R大学のほうはパスだろうと
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