耐え切れなくなった。どうして歩いたか、わからない。振り返って僕を見たひとが、二人あった。地下鉄に乗った。浅草雷門《あさくさかみなりもん》まで来た。浅草は、大勢の人出《ひとで》であった。もう泣いていない。自分を、ラスコリニコフのような気がした。ミルクホールにはいる。卓の上が、ほこりで白くなっている。僕の舌も、ほこりでざらざらしている。とても呼吸が苦しい。落第生。いい図じゃねえぞ。両脚がだるくて、抜けそうだ。眼前に、幻影がありありと浮ぶ。
 ローマの廃墟《はいきょ》が黄色い夕日を浴びてとても悲しい。白い衣にくるまった女が下を向きながら石門の中に消える。
 額に冷汗が出ている。R大学の予科にも受けたのだけれど、まさか、――でも、いや、どうだっていいんだ。はいったって、どうせ、籍を置くだけなんだ。卒業する気はねえんだ。僕は、明日から自活するんだ。去年の夏休みの直前から、僕の覚悟は出来ていたんだ。もう、有閑階級はいやだ。その有閑階級にぺったり寄食していた僕はまあ、なんてみじめな野郎だったんでしょう。富める者の神の国に入《い》るよりは、駱駝《らくだ》の針の孔《あな》を通るかた反《かえ》って易《やす》し。ほんにいい機会じゃござんせんか。明日からは、もう家《うち》の世話にはなりませぬ。ああ荒天よ! 魂よ! あすから僕の世渡りだ。また、眼前に幻影が浮ぶ。
 おそろしく鮮やかな緑だ。泉が湧《わ》く。こんこんと湧いて緑の草の上を流れる。チャプチャプと水の音が聞える。鳥が飛び立つ。
 消える。僕のテエブルの隣りに、醜い顔の洋装の娘が、からのコーヒー茶碗《ぢゃわん》を前に置いて、ぼんやり坐《すわ》っている。コンパクトを取り出して、鼻の頭をたたいた。その時の表情は、白痴のようであった。けれども脚は、ほっそりしていて、絹の靴下《くつした》は、やけに薄い。男が来た。ポマードを顔にまで塗ってるみたいな男だ。女は、にっと笑って立ち上った。僕は顔をそむけた。こんな女のひとをも、キリストは、愛してやったのだろうか。家を飛び出したら僕もまた、あんな女と平気で冗談を言い合うようになってしまうのだろうか。いやなものを見たわい。のどが乾く。ミルクを、もう一つ飲もう。わが未来の花嫁は、かの口吻《こうふん》突出の婦人にして、わが未来の親友は、かの全身ポマードの悪臭高き紳士なり。この予言、あたります。外は、ぞろぞろ人の
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