。ただ、不思議なばかりである。永い、悲しい夢から覚めて、けさは、ただ、眼をぱちくりさせて矢鱈《やたら》に首をかしげている。僕は、けさから、ただの人間になってしまった。どんな巧妙な加減乗除をしても、この僕の|一・〇《いちこんまれい》という存在は流れの中に立っている杭《くい》のように動かない。ひどく、しらじらしい。けさの僕は、じっと立っている杭のように厳粛だった。心に、一点の花も無い。どうした事か。学校へ出てみたが、学生が皆、十歳くらいの子供のように見えるのだ。そうして僕は、学生ひとりひとりの父母の事ばかり、しきりに考えていた。いつものように学生たちを軽蔑する気も起らず、また憎む心もなく、不憫《ふびん》な気持が幽《かす》かに感ぜられただけで、それも雀《すずめ》の群に対する同情よりも淡いくらいのもので、決して心をゆすぶるような強いものではなかった。ひどい興覚め。絶対孤独。いままでの孤独は、謂《い》わば相対孤独とでもいうようなもので、相手を意識し過ぎて、その反撥《はんぱつ》のあまりにポーズせざるを得なくなったような孤独だったが、きょうの思いは違うのだ。まったく誰《だれ》にも興味が無いのだ。ただ、うるさいだけだ。なんの苦も無くこのまま出家|遁世《とんせい》できる気持だ。人生には、不思議な朝もあるものだ。
 幻滅。それだ。この言葉は、なるべく使いたくなかったのだが、どうも、他には言葉が無いようだ。幻滅。しかも、ほんものの幻滅だ。われ、大学に幻滅せり、と以前に猛《たけ》り猛って書き記した事があったような気がするが、いま考えてみると、あれは幻滅でなく、憎悪《ぞうお》、敵意、野望などの燃え上る熱情だった。ほんものの幻滅とは、あんな積極的なものではない。ただ、ぼんやりだ。そうして、ぼんやり厳粛だ。われ、演劇に幻滅せり。ああ、こんな言葉は言いたくない! けれども、なんだか真実らしい。
 自殺。けさは落ちついて、自殺を思った。ほんものの幻滅は、人間を全く呆《ぼ》けさせるか、それとも自殺させるか、おそろしい魔物である。
 たしかに僕は幻滅している。否定する事は出来ない。けれども、生きる最後の一すじの道に幻滅した男は、いったい、どうしたらよいのか。演劇は、僕にとって、唯一《ゆいいつ》の生き甲斐《がい》であったのだ。
 ごまかさずに、深く考えて見よう。演劇を、くだらない等《など》とは思わぬ。くだ
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