うだ。でも、ね、才能は、――」
「何をそんなに、にやにや笑っているんだ。」少し不機嫌になって、「零点をもらって、よろこぶ事はないだろう。」
「ところが、あるんだ。」僕は、きょうの試験の模様をくわしく兄さんに知らせた。
「及第だ。」兄さんは僕の話を聞き終ってから、落ちついて断定を下した。「絶対に落第じゃない。二、三日中に合格通知が来るよ。だけど、不愉快な劇団だなあ。」
「なってないんだ。落第したほうが名誉なくらいだ。僕は合格しても、あの劇団へは、はいらないんだ。上杉氏なんかと一緒に勉強するのは、まっぴらです。」
「そうだねえ。ちょっと幻滅だねえ。」兄さんは、淋《さび》しそうに笑った。「どうだい、もういちど斎藤氏のところへ相談に行ってみないか。あんな劇団は、いやだと、進の感じた事を率直に言ってみたらどうだろう。どの劇団も皆あんなものだから、がまんしてはいれ、と先生が言ったら、仕方が無い。はいるさ。それとも他にまた、いい劇団を紹介してくれるかも知れない。とにかく、試験は受けましたという報告だけでもして置いたほうがいい。どうだい?」
「うん。」気が重かった。斎藤氏は、なんだか、こわい。こんどこそ、折檻《せっかん》されそうな気もする。でも、行かなければならぬ。行って、お指図を受けるより他は無いのだ。勇気を出そう。僕は、俳優として、大いに才能のある男ではなかったか。きのう迄《まで》の僕とは、ちがうのだ。自信を以《もっ》て邁進《まいしん》しよう。一日《いちにち》の労苦《ろうく》は、一日《いちにち》にて足《た》れり。きょうは、なんだか、そんな気持だ。
晩ごはんの後、僕は部屋にとじこもって、きょう一日のながい日記を附《つ》ける。きょう一日で、僕は、めっきり大人《おとな》になった。発展! という言葉が胸に犇々《ひしひし》と迫って来る。一個の人間というものは、非常に尊いものだ! ということも切実に感ずる。
五月十日。水曜日。
晴れ。けさ眼が覚めて、何もかも、まるでもう、変ってしまっているのに気がついた。きのう迄の興奮が、すっかり覚めているのだ。けさは、ただ、いかめしい気持、いや、しらじらしい気持といったほうが近いかも知れぬ。きのう迄の僕は、たしかに発狂していたのだ。逆上していたのだ。どうしてあんなに、浮き浮きと調子づいて、妙な冒険みたいな事ばかりやって来たのか、わからなくなった
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