、いたたまらない気持である。
「何も、」聞きとれないような低い声である。「怒って帰る事はない。」
「はあ。」思わずぺこりと頭をさげた。だから、運転台に乗ればよかったんだ。
「津田君とは、どんな知り合いなのかね。」
「は、兄さんが小説を見てもらっているんです。」と言ったが、斎藤氏は聞いているのか、聞いていないのか、少しの反応もなく、黙っている。しばらくしてから、
「津田君の手紙は、れいに依《よ》って要領を得ないが、――」
 やっぱりそうだった。あれだけでは、なんの事やらわかるまい。
「俳優になりたいんです。」結論だけ言った。
「俳優。」ちっともおどろかない。そうして、それっきりまた、なんにも言わない。僕は、さすがに、じれったくなって来た。
「いい劇団へはいってみっちり修業したいと思うんです。どんな劇団がいいのか教えてください。」
「劇団。」低く呟いて、またしばらく黙っている。僕は、ほとほと閉口した。「いい劇団。」と、また呟いて、だしぬけに怒声を発した。「そんなものは無いよ。」
 僕は、おどろいた。失礼して、自動車から降ろしてもらおうかと思った。とても、まともに話が出来ない。傲慢《ごうまん》というのかしら。実にこれは困った事になったと思った。
「いい劇団が無いんですか。」
「無い。」平然としている。
「こんど鴎座《かもめざ》で、先生の『武家物語』が上演されるようですね。」と僕は、話頭を転じてみた。
 何も答えない。鞄のスナップのあまくなっている個所《かしょ》を修繕している。
「あそこで、」ひょいと、思いがけない時に言い出す。「研修生を募集している。」
「そうですか。それにはいったほうがいいんですか。」と僕は、意気込んで尋ねた。やっと話が本筋にはいって来たと思った。
 答えない。
「やっぱり、だめなんですか。」
 答えない。鞄をやたらに、いじくりまわしている。
「誰でも、勝手に応募できるのかしら。」と、わざと独り言のようにして呟いてみた。
 なんにも反応が無い。
「試験があるんでしょう?」と今度は強く、詰め寄るようにして聞いてみた。
 やっと鞄の修繕が終ったらしい。窓の外を眺めて、
「わからん。」と言った。
 僕は、もう何も聞くまいと思った。自動車は、駿河台《するがだい》、M大学前でとまった。見るとM大の正門に、大きい看板が立てられていて、それには、斎藤市蔵先生特別講演と
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