を見に行った。つまらなかった。少しも可笑《おか》しくなかった。


 五月三日。水曜日。
 晴れ。学校を休んで、芝の斎藤氏邸に、トボトボと出かける。トボトボという形容は、決して誇張ではなかった。実に、暗鬱《あんうつ》な気持であった。
 ところが、きょうは、あまり悪くなかった。いや、そんなにもよくない。でも、まあ、いいほうかも知れない。
 斎藤氏邸の門前には、自動車が一台とまっていた。僕が玄関のベルを押そうとしたら、急に玄関の内がさわがしくなって、がらりと玄関が内からあいて、痩《や》せた小さいお爺《じい》さんがひょいと出て、すたすた僕の前を歩いて行った。斎藤氏だ。その後を追うようにして、先日の女のひとが鞄《かばん》とステッキを持って玄関からあわてて出て来て、
「あら! いまおでかけのところなのよ。ちょうどいいわ、お話してごらんなさい。」
 僕は帽子をとって、ちょっとその女の人にお辞儀をして、それから、すぐに斎藤氏のあとを追って、
「先生!」と呼んだ。斎藤氏は、振り向きもせず、すたすた歩いて門前に待っている自動車にさっさと乗ってしまった。僕は、自動車の窓に走り寄って、
「津田さんからの紹介状、――」と言いかけたら、じろりろ僕を見て、
「乗りたまえ。」と低い声で言った。しめたと思ってドアを開け、斎藤氏のすぐ傍《そば》にどさんと腰をおろした。あっ、運転手の傍に乗るのが礼儀だったのかも知れない、と思ったが、わざわざ向うへ乗りかえるのも、てれくさくて、そのままの姿勢でじっとしていた。
「よござんしたね。」女のひとは、窓から鞄とステッキを斎藤氏に手渡しながら、「こないだは、ずいぶん怒ってお帰りになりましたのよ。」と相変らず上機嫌《じょうきげん》に笑いながら、僕と斎藤氏と二人の顔を見較《みくら》べながら言った。
 斎藤氏は、不機嫌そうに眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて、何も言わなかった。やっぱり、怖い感じだ。運転台に乗ればよかった、とまた思った。
「行ってらっしゃいまし。」
 自動車は走った。
「どちらへ、おいでになるんですか。」と僕は聞いた。斎藤氏は、返事をしなかった。五分も経《た》ってから、
「神田《かんだ》だ。」と重い口調で言った。ひどく嗄《しわが》れた声である。顔は、老俳優のように端麗《たんれい》である。また、しばらくは無言だ。ひどく窮屈である。圧迫が刻一刻と加わって来て
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