、また、しさいらしく帳簿しらべる銀行員に清楚《せいそ》を感じ、医者の金鎖の重厚に圧倒され、いちどはひそかに高台にのぼり、憂国熱弁の練習をさえしてみたのだが、いまは、すべてをあきらめた。何をさせても、だめな男である。確認した。そうして、自分にも、あまり優れたものとは思われない、たわいない物語を書いている。夜の九時すぎまで、神妙に机のまえに坐り、仕事をつづけた。厭《あ》きて来た。うんざりして来た。ふっと酒を呑みたく思ったが一家の経済を思い、がまんをした。そうして、寝ることにした。このごろは、早寝早起を励行している。少しでも一般市民の生活態度にあゆみ寄りたい悲壮の心からである。早起のほうは、さほど苦痛でない。私は、老いの寝覚めをやるほうなので、夜明けが待ち遠しいことさえある。睡眠時間が、短いのである。からだのどこかが、老人になってしまっているのかも知れない。朝、寝床の中で愚図愚図していると、のた打つほど苦になることばかり、ぞろぞろ、しかも色あざやかに思い出されて来て、たまったものでない。それにこの部屋は、東側が全部すり硝子《ガラス》の窓なので、日の出とともに光が八畳間一ぱいに氾濫《はんらん》
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