す》かな音が、窓の外から聞えて来た。たしかに、雨傘をこっそり開く音である。日没の頃から、雨が冷たく降りはじめていたのである。誰か、外に立っているにちがいない。私は躊躇《ちゅうちょ》せずに窓をあけた。たそがれ、逢魔《おうま》の時というのであろう、もやもや暗い。塀の上に、ぼんやり白いまるいものが見える。よく見ると、人の顔である。
「やって来たのは、ガスコン兵。」口癖になっていた、あの無意味な、ばからしい言葉。そいつが、まるで突然、口をついて出てしまった。すると、その言葉が何か魔除《まよ》けの呪文《じゅもん》ででもあったかのように、塀の上の目鼻も判然としない杓文字《しゃもじ》に似た小さい顔が、すっと消えた。跡には、ゆすら梅が白く咲いていた。
私は、恐怖よりも、侮辱を感じた。ばかにしてやがる、と思った。本来の私ならば、ここに於いて、あの泥靴の不愉快きわまる夢をはじめ、相ついで私の一身上に起る数々の突飛《とっぴ》の現象をも思い合せ、しかも、いま、この眼で奇怪の魔性のものを、たしかに見とどけてしまったからには、もはや、逡巡《しゅんじゅん》のときでは無い、さては此《こ》の家に何か異変の起るぞと、厳
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