なたのお母さんが亡くなった頃には、あの人はまだ、この村に来てやしません。あのひとが、わたくしどものうちへ養子に来てから、まだ十年も経っていないのですよ。その前は、あの人の生れた黒石のうちにいて、黒石の小学校の先生をしていたのですし、この村のそんな、二十年も昔の事など知っているわけはないじゃありませんか。ばかばかしい。
(奥田)(軽く)いいえ、でも、土地に新しく来た人というものは、へんにその土地の秘密に敏感なものですよ。
(しづ)(さびしく笑って)でたらめですよ。そんな馬鹿らしい事ってあるものですか。(ふと語調を変えて)あの人はその時、お酒を飲んでいませんでしたか? あなたにそれを言った時に。
(奥田)(ぼんやり)ええ、酔っていました。
(しづ) そうでしょう? (意気込んで)それにきまっています。あの人は若い時に、哲学だか文学だかをやった事があるんだそうで、そのためにひどい神経衰弱になって、それがまだすっかりなおっていないんでしょうね、いまでもお酒を飲むと、まるでもう気違いみたいなへんな事を口走って、ご自分が夢で見た事を、そのままげんざい在った事みたいに、それはもう、しつっこく言い張っ
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