の席の一時の冗談として、僕は少しも気にとめていなかったのですが、あのトヨ公のおかみの何気なさそうなお世辞だけは、妙に心にしみました。女のひとたちは、どうだか知りませんが、男というものは、女からへんにまじめに一言でもお世辞を言われると、僕のようなぶざいくな男でも、にわかにムラムラ自信が出て来て、そうしてその揚句《あげく》、男はその女のひとに見っともないくらい図々《ずうずう》しく振舞い、そうして男も女も、みじめな身の上になってしまうというのが、世間によく見掛ける悲劇の経緯のように思われます。女のひとは、めったに男にお世辞なんか言うべきものでは無いかも知れませんね。とにかく、僕たちの場合、たった一言の指のお世辞から、ぐんぐん悲劇に突入しました。じっさい、自惚《うぬぼ》れが無ければ、恋愛も何も成立できやしませんが、僕はそれから毎晩のようにトヨ公に通い、また、昼にはおかみと一緒に銀座を歩いたり、そうして、ただもう自惚れを増すばかりで、はたから見たら、あさましい馬か狼《おおかみ》がよだれを流して荒れ狂ってるみたいな、にがにがしい限りのものだったのでしょう。とうとう僕は、或る夜、トヨ公で酔っぱらい作
前へ 次へ
全18ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング