女人創造
太宰治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)甚《はなは》だ
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 男と女は、ちがうものである。あたりまえではないか、と失笑し給うかも知れぬが、それでいながら、くるしくなると、わが身を女に置きかえて、さまざまの女のひとの心を推察してみたりしているのだから、あまり笑えまい。男と女はちがうものである。それこそ、馬と火鉢ほど、ちがう。思いにふける人たちは、これに気がつくこと、甚《はなは》だおそい。私も、このごろ、気がついた。名前は忘れたが或る外国人のあらわしたショパン伝を読んでいたら、その中に小泉八雲の「男は、その一生涯に、少くとも一万回、女になる。」という奇怪な言葉が引用されていたが、そんなことはないと思う。それは、安心していい。
 日本の作家で、ほんとうの女を描いているのは、秋江《しゅうこう》であろう。秋江に出て来る女は、甚だつまらない。「へえ。」とか、「そうねえ。」とか呟《つぶや》いているばかりで、思索的でないこと、おびただしい。けれども、あれは、正確なのである。謂《い》わば、なつかしい現実である。
 江戸の小咄《こばなし》にも、あるではないか。朝、垣根越しにとなりの庭を覗《のぞ》き見していたら、寝巻姿のご新造が出て来て、庭の草花を眺め、つと腕をのばし朝顔の花一輪を摘《つ》み取った。ああ風流だな、と感心して見ていたら、やがて新造は、ちんとその朝顔で鼻をかんだ。
 モオパスサンは、あれは、女の読むものである。私たち一向に面白くないのは、あれには、しばしば現実の女が、そのままぬっと顔を出して来るからである。頗《すこぶ》る、高邁でない。モオパスサンは、あれほどの男であるから、それを意識していた。自分の才能を、全人格を厭悪《えんお》した。作品の裏のモオパスサンの憂鬱と懊悩《おうのう》は、一流である。気が狂った。そこにモオパスサンの毅然《きぜん》たる男性が在る。男は、女になれるものではない。女装することは、できる。これは、皆やっている。ドストエフスキイなど、毛臑《けずね》まるだしの女装で、大真面目である。ストリンドベリイなども、ときどき熱演のあまり鬘《かつら》を落して、それでも平気で大童《おおわらわ》である。
 女が描けていない、ということは、何も、その作品の決定的な不名誉ではない。女を描けないのではなくて、女を描かないのである。そこに
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