理想主義の獅子《しし》奮迅《ふんじん》が在る。美しい無智が在る。私は、しばらく、この態度に拠《よ》ろうと思っている。この態度は、しばしば、盲目に似ている。時には、滑稽でさえある。けれども、私は、「あらまあ、しばらく。」なぞという挨拶にはじまる女人の実体を活写し得ても、なんの感激も有難さも覚えないのだから、仕方がないのである。私は、ひとりになっても、やはり、観念の女を描いてゆくだろう。五尺七寸の毛むくじゃらの男が、大汗かいて、念写する女性であるから笑い上戸の二、三の人はきっと腹をかかえて大笑いするであろう。私自身でさえ、少し可笑《おか》しい。男の読者のほとんど全部が、女性的という反省に、くるしめられた経験を、お持ちであろう。けれども、そんなときには、女をあらためて、も一度見ることである。つくづくその女の動きを見ているうちに、諸君は、安心するであろう。ああ僕は、女じゃない。女は、瞑想《めいそう》しない。女は、号令しない。女は、創造しない。けれども、その現実の女を、あらわに軽蔑《けいべつ》しては、間違いである。こんなことは、書きながら、顔が赤くなって来て、かなわない。まあ、やさしくしてやるんだね。
 絶望は、優雅を生む。そこには、どうやら美貌のサタンが一匹住んでいる。けれども、その辺のことは、ここで軽々しく言い切れることがらでない。
 こんな、とりとめないことを、だらだら書くつもりでは、なかったのである。このごろまた、小説を書きはじめて、女性を描くのに、多少、秘法に気がついた。私には、まだ、これといって誇示できるような作品がないから、あまり大きいことは言えないが、それは、ちょっと、へんな作法である。言い出そうとして、流石《さすが》に、口ごもるのである。言っては、いけないことかも知れない。へんなものである。なに、まえから無意識にやっていたのを、このごろ、やっと大人になって、それに気づいたというだけのことかも知れない。言い出せば、それは、あたりまえのことで、なあんだということになるのかも知れないが、下手に言い出して曲解され、損をするのは、いやだ。やはり、黙っていよう。「叡智《えいち》は悪徳である。けれども作家は、これを失ってはならぬ。」



底本:「もの思う葦」新潮文庫、新潮社
   1980(昭和55)年9月25日発行
   1998(平成10)年10月15日39刷
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