すからね、ままになりません、と言った。すると彼は、私に同情するような眼つきをして、私の顔をしげしげと見て、黙した。
 やがて彼は奥さんと一緒に満洲へ行き、満洲の或《あ》る出版会社に夫婦共に勤めたようで、そのような事をしたためた葉書を私は一枚いただいて、それっきり私たちの附合いは絶えた。
 その細田氏が、去年の暮に突然、私の三鷹《みたか》の家へ訪れて来たのである。
「細田です。」
 そう名乗られて、はじめて、あ、と気附いたくらい、それほど細田氏の様子は変っていた。あのおしゃれな人が、軍服のようなカーキ色の詰襟《つめえり》の服を着て、頭は丸坊主で、眼鏡も野暮《やぼ》な形のロイド眼鏡で、そうして顔色は悪く、不精鬚《ぶしょうひげ》を生《は》やし、ほとんど別人の感じであった。
 部屋へあがって、座ぶとんに膝《ひざ》を折って正坐し、
「私は、正気ですよ。正気ですよ。いいですか? 信じますか?」
 とにこりともせず、そう言った。
 はてな? とも思ったが、私は笑って、
「なんですか? どうしたのです。あぐらになさいませんか、あぐらに。」
 と言ったら、彼は立ち上り、
「ちょっと、手を洗わせて下さい。
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