いは女の大笑いの顔を印刷すべきなんだそうです。そう言われてみると、ドイツ語でもフランス語でも、貨幣はちゃんと女性名詞という事になっていますからね。鬚だらけのお爺さんのおそろしい顔などを印刷するのは、たしかに政府の失策ですよ。日本の全部の紙幣に、私たちの母の女神の大笑いをしている顔でも印刷して発行したなら、日本のインフレーションは、ただちにおさまるというわけです。日本のインフレーションは、もう一日も放置すべからざる、どたん場に来ているんですからね。手当が一日でもおくれたらもう、それっきりです。一刻の猶予《ゆうよ》もならんのです。すぐまいりましょう。」
と言って、立ち上る。
私は一緒に行くべきかどうか迷った。いま彼をひとりで、外へ出すのも気がかりであった。この勢いだと、彼は本当にその一ばん上の兄さんの居所に押しかけて行って大騒ぎを起さぬとも限らぬ。そうして、その門前に於いて、彼の肉親の弟だという私(太宰)の名前をも口走り、私が彼の一味のように誤解せられる事などあっては、たまらぬ。彼をこのまま、ひとりで外へ出すのは危険である。
「だいたいわかりましたけれども、私は、その一ばん上の兄さんに逢う前に、私たちのお母さんに逢って、直接またいろいろとお話を伺ってみたいと思います。まず、さいしょに、私をお母さんのところに連れて行って下さい。」
細君の許《もと》に送りとどけるのが、最も無難だと思ったのである。私は彼の細君とは、まだいちども逢った事が無い。彼は北海道の産であるが、細君は東京人で、そうして新劇の女優などもした事があり、互いに好き合って一緒になったとか、彼から聞いた事がある。なかなかの美人だという事を、他のひとから知らされたりしたが、しかし、私はいちどもお目にかかった事が無かったのである。
いずれにしても、その日、私は彼の悲惨な痴語を聞いて、その女を、非常に不愉快に感じたのである。いやしくも知識人の彼に、このようなあさましい不潔なたわごとをわめかせるに到らしめた責任の大半は彼女に在るのは明らかである。彼女もまた発狂しているのかどうか、それは逢ってみなければ、ただ彼の話だけではわからぬけれども、彼にとって彼の細君は、まさしく悪魔の役を演じているのは、たしかである。これから、彼の家へ行って細君に逢い、場合に依っては、その女神とやらの面皮をひんむいてやろうと考え、普段着の和服に二重廻しをひっかけ、
「それでは、おともしましょう。」
と言った。
外へ出ても、彼の興奮は、いっこうに鎮《しず》まらず、まるでもう踊りながら歩いているというような情ない有様で、
「きょうは実に、よい日ですね。奇蹟の日です。昭和十二年十二月十二日でしょう? しかも、十二時に、私たち兄弟はそろって母に逢いに出発した。まさに神のお導きですね。十二という数は、六でも割れる、三でも割れる、四でも割れる、二でも割れる、実に神聖な数ですからね。」
と言ったが、その日は、もちろん昭和十二年の十二月の十二日なんかではなかった。時刻も既に午後三時近かった。そのときの実際の年月日時刻のうちで、六で割れる数は、十二月だけだった。
彼のいま住んでいるところは、立川市だというので、私たちは三鷹駅から省線に乗った。省線はかなり混んでいたが、彼は乗客を乱暴に掻《か》きわけて、入口から吊皮《つりかわ》を、ひいふうみいと大声で数えて十二番目の吊皮につかまり、私にもその吊皮に一緒につかまるように命じ、
「立川というのを英語でいうなら、スタンデングリバーでしょう? スタンデングリバー。いくつの英字から成り立っているか、指を折って勘定《かんじょう》してごらんなさい。そうれ、十二でしょう? 十二です。」
しかし、私の勘定では、十三であった。
「たしかに、立川は神聖な土地なのです。三鷹、立川。うむ、この二つの土地に何か神聖なつながりが、あるようですね。ええっと、三鷹を英語で言うなら、スリー、……スリー、スリー、ええっと、英語で鷹を何と言いましたかね、ドイツ語なら、デルファルケだけれども、英語は、イーグル、いやあれは違うか、とにかく十二になる筈です。」
私はさすがに、うんざりして、矢庭《やにわ》に彼をぶん殴《なぐ》ってやりたい衝動さえ感じた。
立川で降りて、彼のアパートに到る途中に於いても、彼のそのような愚劣極まる御託宣をさんざん聞かされ、
「ここです、どうぞ。」
と、竹藪《たけやぶ》にかこまれ、荒廃した病院のような感じの彼のアパートに導かれた時には、すでにあたりが薄暗くなり、寒気も一段ときびしさを加えて来たように思われた。
彼の部屋は、二階に在った。
「お母さん、ただいま。」
彼は部屋へ入るなり、正坐してぴたりと畳に両手をついてお辞儀をした。
「おかえりなさい。寒かったでしょう?」
細
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