言論の自由とは言っても、それは少しここに書くのがはばかりのあるくらいの、大偉人の名を彼は平然と誇らしげに述べて、「いいですか? これは確実な事ですが、しかし、当分は秘密にして置いたほうがいいでしょう。民衆の誤解を招いてもつまりませんからね。この我々三人の兄弟が、これから力を合せて、文化日本の建設に努めなければならぬのです。これを私に教えてくれたのは、私たちの母です。おどろいてはいけませんよ。私たち三人の生みの母は、実は私のうちの女房であったのです。うちの女房は、戸籍のほうでは、三十四歳という事になっていますが、それはこの世の仮《かり》の年齢で、実は、何百歳だかわからぬのです。ずっとずっと昔から、同じ若さを保って、この日本の移り変りを、黙って眺めていたというわけです。それがこの終戦後の、日本はじまって以来の大混乱の姿を見て、もはや黙すべからずと、かれの本性を私に打ち明け、また私の兄と弟とを指摘して兄弟三人、力を合せて日本を救え、他の男は皆だめだと言ったのです。私たちの母の説に依《よ》れば、百年ほど前から既に世界は、男性|衰微《すいび》の時代にはいっているのだそうでして、肉体的にも精神的にも、男性の疲労がはじまり、もう何をやっても、ろくな仕事が出来ない劣等の種族になりつつあるのだそうで、これからはすべて男性の仕事は、女性がかわってやるべき時なのだそうです。女房が、いや、母が、私にその事を打ち明けてくれたのは、満洲から引揚げの船中に於いてでありましたが、私はその時には肉体的にも精神的にも、疲労こんぱいの極に達していまして、いやもう本当に、満洲では苦労しまして、あまりひもじくて馬の骨をかじってみた事さえありまして、そうして日一日と目立って痩《や》せて行きますのに、女房は、いや、母は、まことに粗食で、おいしいものを一つも食べず、何かおいしいものでも手にはいるとみんな私に食べさせ、それでいて、いつも白く丸々と太り、力も私の倍くらいあるらしく、とても私には背負い切れない重い荷物を、らくらくと背負って、その上にまた両手に風呂敷包《ふろしきづつみ》などさげて歩けるという有様ですので、つくづく私も不思議に感じ、引揚げの船の中で、どうしてお前はそんなにいつも元気なのかね、お前ばかりでなく、この引揚げの船の中に乗っている女のひと全部が、男のひとは例外なく痩せて半病人のようになっているのに、自信満々の勢いを示している、何かそこに大きな理由が無くてはかなわぬ、その理由は何だ、とたずねますと、女房はにこにこ笑いまして、実は、と言い、男性衰微時代が百年前からはじまっている事、これからはすべて女性の力にすがらなければ世の中が自滅するだろうという事、その女性のかしらは私自身で、私は実は女神だという事、男の子が三人あって、この三人の子だけは、女神のおかげで衰弱せず、これからも女性に隷属する事なく、男性と女性の融和を図《はか》り、以《もっ》て文化日本の建設を立派に成功せしむる大人物の筈である事、だからあなたも、元気を出して、日本に帰ったら、二人の兄弟と力を合せて、女神の子たる真価を発揮するように心掛けるべきです、とここにはじめて、いっさいの秘密が語り明かされたというわけなのです。それを聞いて私は、にわかに元気が出て、いまはもう二日ものを食わなくても平気になりました。私たちは、女神の子ですから、いかに貧乏をしても絶対に衰弱する事は無いんです。あなたもどうか、奮起して下さい。私は正気です。落ちついています。私の言う事は、信じなければいけません。」
まぎれもない狂人である。満洲で苦労の結果の発狂であろう。或《ある》いは外地の悪質の性病に犯されたせいかも知れない。気の毒とも可哀想とも悲惨とも、何とも言いようのないつらい気持で、彼の痴語を聞きながら、私は何度も眼蓋《まぶた》の熱くなるのを意識した。
「わかりました。」
私は、ただそう言った。
彼は、はじめて莞爾《かんじ》と笑って、
「ああ、あなたは、やっぱり、わかって下さる。あなたなら、私の言う事を必ず全部、信じてくれるだろうとは思っていたのですが、やっぱり、血をわけた兄弟だけあって、わかりが早いですね。接吻しましょう。」
「いや、その必要は無いでしょう。」
「そうでしょうか。それじゃ、そろそろ出掛ける事にしましょうか。」
「どこへです?」
三人兄弟の長兄に、これから逢《あ》いに行くのだという。
「インフレーションがね、このままでは駄目なのです。母がそう言っているんです。とにかく、一ばん上の兄さんに逢って、よく相談しなくちゃいけないんです。母の意見に依りますと、日本の紙幣には、必ずグロテスクな顔の鬚《ひげ》をはやした男の写真が載っているけれども、あれがインフレーションの原因だというのです。紙幣には、女の全裸の姿か、ある
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