君は、お勝手のカーテンから顔を出して笑った。健康そうな、普通の女性である。しかも、思わず瞠若《どうじゃく》してしまうくらいの美しいひとであった。
「きょうは、弟を連れて来ました。」
と彼は私を、細君に引き合した。
「あら。」
と小さく叫んで、素早くエプロンをはずし、私の斜め前に膝をついた。
私は、私の名前を言ってお辞儀した。
「まあ、それは、それは。いつも、もう細田がお世話になりまして、いちどわたくしもご挨拶《あいさつ》に伺いたいと存じながら、しつれいしておりまして、本当にまあ、きょうは、ようこそ、……」
云々《うんぬん》と、普通の女の挨拶を述べるばかりで、すこしも狂信者らしい影が無い。
「うむ、これで母と子の対面もすんだ。それでは、いよいよインフレーションの救助に乗り出す事にしましょう。まず、新鮮な水を飲まなければいけない。お母さん、薬缶《やかん》を貸して下さい。私が井戸から汲《く》んでまいります。」
細田氏ひとりは、昂然たるものである。
「はい、はい。」
何気ないような快活な返事をして、細君は彼に薬缶を手渡す。
彼が部屋を出てから、すぐに私は細君にたずねた。
「いつから、あんなになったのですか?」
「え?」
と、私の質問の意味がわからないような目つきで、無心らしく反問する。
私のほうで少しあわて気味になり、
「あの、細田さん、すこし興奮していらっしゃるようですけど。」
「はあ、そうでしょうかしら。」
と言って笑った。
「大丈夫なんですか?」
「いつも、おどけた事ばかり言って、……」
平然たるものである。
この女は、夫の発狂に気附いていないのだろうか。私は頗《すこぶ》る戸惑った。
「お酒でもあるといいんですけど、」と言って立ち上り、電燈のスイッチをひねって、「このごろ細田は禁酒いたしましたもので、配給のお酒もよそへ廻してしまいまして、何もございませんで、失礼ですけど、こんなものでも、いかがでございますか。」
と落ちついて言って私に蜜柑《みかん》などをすすめる。電気をつけてみると、部屋が小綺麗《こぎれい》に整頓《せいとん》せられているのがわかり、とても狂人の住んでいる部屋とは思えない。幸福な家庭の匂いさえするのである。
「いやもう何も、おかまいなく。私はこれで失礼しましょう。細田さんが何だか興奮していらっしゃるようでしたから、心配して、お宅まで送ってまいりましたのです。では、どうか、細田さんによろしく。」
引きとめられるのを振り切って、私はアパートを辞し、はなはだ浮かぬ気持で師走《しわす》の霧の中を歩いて、立川駅前の屋台で大酒を飲んで帰宅した。
わからない。
少しもわからない。
私は、おそい夕ごはんを食べながら、きょうの事件をこまかに家の者に告げた。
「いろいろな事があるのね。」
家の者は、たいして驚いた顔もせず、ただそう呟いただけである。
「しかし、あの細君は、どういう気持でいるんだろうね。まるで、おれには、わからない。」
「狂ったって、狂わなくたって、同じ様なものですからね。あなたもそうだし、あなたのお仲間も、たいていそうらしいじゃありませんか。禁酒なさったんで、奥さんはかえって喜んでいらっしゃるでしょう。あなたみたいに、ほうぼうの酒場にたいへんな借金までこさえて飲んで廻るよりは、罪が無くっていいじゃないの。お母さんだの、女神だのと言われて、大事にされて。」
私は眉間《みけん》を割られた気持で、
「お前も女神になりたいのか?」
とたずねた。
家の者は、笑って、
「わるくないわ。」
と言った。
底本:「太宰治全集9」ちくま文庫、筑摩書房
1989(平成元)年5月30日第1刷発行
1998(平成10)年6月15日第5刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月発行
入力:柴田卓治
校正:かとうかおり
2000年1月24日公開
2005年11月7日修正
青空文庫作成ファイル:
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