十五年間
太宰治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)居候《いそうろう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五年|経《た》ち
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れいの戦災をこうむり、自分ひとりなら、またべつだが、五歳と二歳の子供をかかえているので窮し、とうとう津軽の生家にもぐり込んで、親子四人、居候《いそうろう》という身分になった。
たいていの人は、知っているかと思うが、私は生家の人たちと永いこと、具合の悪い間柄になっていた。げびた言い方をすれば、私は二十代のふしだらのために勘当されていたのである。
それが、二度も罹災《りさい》して、行くところが無くなり、ヨロシクタノムと電報を発し、のこのこ生家に乗り込んだ。
そうして間もなく戦いが終り、私は和服の着流しで故郷の野原を、五歳の女児を連れて歩きまわったりなど出来るようになった。
まことに、妙な気持のものであった。私はもう十五年間も故郷から離れていたのだが、故郷はべつだん変っていない。そうしてまた、その故郷の野原を歩きまわっている私も、ただの津軽人である。十五年間も東京で暮していながら、一向に都会人らしく無いのである。首筋太く鈍重な、私はやはり百姓である。いったい東京で、どんな生活をして来たのだろう。ちっとも、あか抜けてやしないじゃないか。私は不思議な気がした。
そうして、或る眠られぬ一夜、自分の十五年間の都会生活に就《つ》いて考え、この際もういちど、私の回想記を書いてみようかと思い立った。もういちど、というわけは、五年くらい前に、私は「東京八景」という題で私のそれまでの東京生活をいつわらずに書いて発表した事があるからである。しかし、それから五年|経《た》ち、大戦の辛苦を嘗《な》めるに及んで、あの「東京八景」だけでは、何か足りないような気がして、こんどは一つ方向をかえ、私がこれまで東京に於《お》いて発表して来た作品を主軸にして、私という津軽の土百姓の血統の男が、どんな都会生活をして来たかを書きしたため、また「東京八景」以後の大戦の生活をも補足し、そうして、私の田舎臭《いなかくさ》い本質を窮《きわ》めたいと思った。
私が東京に於いてはじめて発表した作品は、「魚服記」という十八枚の短篇小説で、その翌月から「思い出」という百枚の小説を三回にわけて発表した。いずれも、「海豹《あざらし》」という同人雑誌に発表したのである。昭和八年である。私が弘前《ひろさき》の高等学校を卒業し、東京帝大の仏蘭西《フランス》文科に入学したのは昭和五年の春であるから、つまり、東京へ出て三年目に小説を発表したわけである。けれども私が、それらの小説を本気で書きはじめたのは、その前年からの事であった。その頃の事情を「東京八景」には次のように記《しる》されてある。
「けれども私は、少しずつ、どうやら阿呆《あほう》から眼ざめていた。遺書を綴《つづ》った。「思い出」百枚である。今では、この「思い出」が私の処女作という事になっている。自分の幼時からの悪を、飾らずに書いて置きたいと思ったのである。二十四歳の秋の事である。草|蓬々《ぼうぼう》の広い廃園を眺《なが》めながら、私は離れの一室に坐って、めっきり笑を失っていた。私は、再び死ぬつもりでいた。きざと言えば、きざである。いい気なものであった。私は、やはり、人生をドラマと見做《みな》していた。いや、ドラマを人生と見做していた。(中略)けれども人生は、ドラマでなかった。二幕目は誰も知らない。「滅び」の役割を以《もっ》て登場しながら、最後まで退場しない男もいる。小さい遺書のつもりで、こんな穢《きたな》い子供もいましたという幼年及び少年時代の私の告白を、書き綴ったのであるが、その遺書が、逆に猛烈に気がかりになって、私の虚無に幽《かす》かな燭燈《ともし》がともった。死に切れなかった。その「思い出」一篇だけでは、なんとしても、不満になって来たのである。どうせ、ここまで書いたのだ。全部を、書いて置きたい。きょう迄《まで》の生活の全部を、ぶちまけてみたい。あれも、これも。書いて置きたい事が一ぱい出て来た。まず、鎌倉《かまくら》の事件を書いて、駄目。どこかに手落ちが在る。さらに又、一作書いて、やはり不満である。溜息《ためいき》ついて、また次の一作にとりかかる。ピリオドを打ち得ず、小さいコンマの連続だけである。永遠においでおいでの、あの悪魔《デモン》に、私はそろそろ食われかけていた。蟷螂《とうろう》の斧《おの》である。
私は二十五歳になっていた。昭和八年である。私は、このとしの三月に大学を卒業しなければならなかった。けれども私は、卒業どころか、てんで試験にさえ出ていない。故郷の兄たちは、それを知らない。ばかな事ばかり、やらかしたがそのお詫《わ》びに、学校だけは卒業して見せてくれるだろう。それくらいの誠実は持っている奴《やつ》だと、ひそかに期待していた様子であった。私は見事に裏切った。卒業する気は無いのである。信頼している者を欺くことは、狂せんばかりの地獄である。それからの二年間、私は、その地獄の中に住んでいた。来年は、必ず卒業します。どうか、もう一年、おゆるし下さい、と長兄に泣訴しては裏切る。そのとしも、そうであった。その翌《あく》るとしも、そうであった。死ぬるばかりの猛省と自嘲《じちょう》と恐怖の中で、死にもせず私は、身勝手な、遺書と称する一|聯《れん》の作品に凝っていた。これが出来たならば。そいつは所詮《しょせん》、青くさい気取った感傷に過ぎなかったのかも知れない。けれども私は、その感傷に、命を懸《か》けていた。私は書き上げた作品を、大きい紙袋に、三つ四つと貯蔵した。次第に作品の数も殖《ふ》えて来た。私は、その紙袋に毛筆で、「晩年」と書いた。その一聯の遺書の、銘題のつもりであった。もう、これで、おしまいだという意味なのである。」
こんなところがまあ、当時の私の作品の所謂《いわゆる》、「楽屋裏」であった。この紙袋の中の作品を、昭和八、九、十、十一と、それから四箇年のあいだに全部発表してしまったが、書いたのは、おもに昭和七、八の両年であった。ほとんど二十四歳と二十五歳の間の作品なのである。私はそれからの二、三年間は、人から言われる度に、ただその紙袋の中から、一篇ずつ取り出して与えると、それでよかった。
昭和八年、私が二十五歳の時に、その「海豹」という同人雑誌の創刊号に発表した「魚服記」という十八枚の短篇小説は、私の作家生活の出発になったのであるが、それが意外の反響を呼んだので、それまで私の津軽訛《つがるなま》りの泥臭い文章をていねいに直して下さっていた井伏さんは驚き、「そんな、評判なんかになる筈《はず》は無いんだがね。いい気になっちゃいけないよ、何かの間違いかもわからない。」
と実に不安そうな顔をしておっしゃった。
そうして井伏さんはその後も、また、いつまでも、或《ある》いは何かの間違いかもわからない、とハラハラしていらっしゃる。永遠に私の文章に就いて不安を懐《いだ》いてくれる人は、この井伏さんと、それからの津軽の生家の兄かも知れない。このお二人は、共にことし四十八歳。私より十一、年上であって、兄の頭は既に禿《は》げて光り、井伏さんも近年めっきり白髪が殖えた。いずれもなかなか稽古《けいこ》がきびしかった。性格も互いにどこやら似たところがある。私は、しかし、この人たちに育てられたのだ。この二人に死なれたら、私はひどく泣くだろうと思われる。
「魚服記」を発表し、井伏さんは、「何かの間違いかもわからない」と言って心配してくれているのに、私は田舎者の図々《ずうずう》しさで、さらにそのとし「思い出」という作品を発表し、もはや文壇の新人という事になった。そうしてその翌る年には、他のかなり有名な文芸雑誌などから原稿の依頼を受けたりしていたが、原稿料は、あったり無かったり、あっても一枚三十銭とか五十銭とか、ひどく安いもので、当時最も親しく附き合っていた学友などと一緒におんでやでお酒を飲みたくても、とても足りない金額であった。「晩年」という創作集なども出版せられ、太宰という私の筆名だけは世に高くなったが、私は少しも幸福にならなかった。私のこれまでの生涯を追想して、幽かにでも休養のゆとりを感じた一時期は、私が三十歳の時、いまの女房を井伏さんの媒酌でもらって、甲府《こうふ》市の郊外に一箇月六円五十銭の家賃の、最小の家を借りて住み、二百円ばかりの印税を貯金して誰とも逢わず、午後の四時頃から湯豆腐でお酒を悠々《ゆうゆう》と飲んでいたあの頃である。誰に気がねも要《い》らなかった。しかし、それも、たった三、四箇月で駄目になった。二百円の貯金なんて、そんなにいつまでもあるわけは無い。私はまた東京へ出て来て、荒っぽいすさんだ生活に、身を投じなければならなかった。私の半生は、ヤケ酒の歴史である。
秩序ある生活と、アルコールやニコチンを抜いた清潔なからだを純白のシーツに横たえる事とを、いつも念願にしていながら、私は薄汚《うすぎたな》い泥酔者として場末の露地をうろつきまわっていたのである。なぜ、そのような結果になってしまうのだろう。それを今ここで、二言か三言で説明し去るのも、あんまりいい気なもののように思われる。それは私たちの年代の、日本の知識人全部の問題かも知れない。私のこれまでの作品ことごとくを挙げて答えてもなお足りずとする大きい問題かも知れない。
私はサロン芸術を否定した。サロン思想を嫌悪《けんお》した。要するに私は、サロンなるものに居たたまらなかったのである。
それは、知識の淫売店《いんばいだな》である。いや、しかし、淫売店にだって時たま真実の宝玉が発見できるだろう。それは、知識のどろぼう市である。いや、しかし、どろぼう市にだってほんものの金の指環《ゆびわ》がころがっていない事もない。サロンは、ほとんど比較を絶したものである。いっそ、こうとでも言おうかしら。それは、知識の「大本営《だいほんえい》発表」である。それは、知識の「戦時日本の新聞」である。
戦時日本の新聞の全紙面に於いて、一つとして信じられるような記事は無かったが、(しかし、私たちはそれを無理に信じて、死ぬつもりでいた。親が破産しかかって、せっぱつまり、見えすいたつらい嘘《うそ》をついている時、子供がそれをすっぱ抜けるか。運命窮まると観じて黙って共に討死さ。)たしかに全部、苦しい言いつくろいの記事ばかりであったが、しかし、それでも、嘘でない記事が毎日、紙面の片隅《かたすみ》に小さく載っていた。曰《いわ》く、死亡広告である。羽左衛門《うざえもん》が疎開先で死んだという小さい記事は嘘でなかった。
サロンは、その戦時日本の新聞よりもまだ悪い。そこでは、人の生死さえ出鱈目《でたらめ》である。太宰などは、サロンに於いて幾度か死亡、あるいは転身あるいは没落を広告せられたかわからない。
私はサロンの偽善と戦って来たと、せめてそれだけは言わせてくれ。そうして私は、いつまでも薄汚いのんだくれだ。本棚《ほんだな》に私の著書を並べているサロンは、どこにも無い。
けれども、私がこうしてサロンがどうのと、おそろしくむきになって書いても、それはいったい何の事だか、一向にわからない人が多いだろうと思われる。サロンは、諸外国に於いて文芸の発祥地だったではないか、などと言って私に食ってかかる半可通が、私のいうサロンなのだ。世に、半可通ほどおそろしいものは無い。こいつらは、十年前に覚えた定義を、そのまま暗記しているだけだ。そうして新しい現実をその一つ覚えの定義に押し込めようと試みる。無理だよ、婆さん。所詮、合いませぬて。
自分を駄目だと思い得る人は、それだけでも既に尊敬するに足る人物である。半可通は永遠に、洒々然《しゃあしゃあぜん》たるものである。天才の誠実を誤り伝えるのは、この人たちである。そうしてかえって、俗物の偽善に支持を与えるのはこの人たちである。日本には、半可通ばかりうようよいて、国土を埋めたといっても過言ではあるまい
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