。
もっと気弱くなれ! 偉いのはお前じゃないんだ! 学問なんて、そんなものは捨てちまえ!
おのれを愛するが如《ごと》く、汝《なんじ》の隣人を愛せよ。それからでなければ、どうにもこうにもなりゃしないのだよ。
とこう言うとまた、れいのサロンの半可通どもは、その思想は云々《うんぬん》と、ばかな議論をはじめるだろう。かえるのつらに水である。やり切れねえ。
いったい私の言っているサロンとは何の事か。諸外国の文芸の発祥地と言われているサロンと、日本のサロンとは、どんな根本的な差異があるか。皇室または王室と直接のつながりのあるサロンと、企業家または官吏につながっているサロンと、どう違うか。君たちのサロンは、猿芝居《さるしばい》だというのはどういうわけか。いまここで、いちいち諸君に噛《か》んでふくめるように説明してお聞かせすればいいのかも知れないが、そんな事に努力を傾注していると、君たちからイヤな色気を示されたりして、太宰もサロンに迎えられ、むざんやミイラにされてしまうおそれが多分にあるので、私はこれ以上の奉仕はごめんこうむる。なあに、いいやつには、言わなくたってちゃんとわかっているのだから。
私はいま、自分の創作年表とでも称すべき焼け残りの薄汚い手帳のペエジを繰りながら、さまざまの回想にふける。私がはじめて東京で作品を発表した昭和八年から、二十年まで、その十二箇年間、私はあのサロンの連中とはまるっきり違った歩調であるいて来た。これではあの者たちと永遠に溶け合わないのも無理がない。あれは昭和二、三年の頃であったろうか。私がまだ弘前《ひろさき》高等学校の文科生であって、しばしば東京の兄(この兄はからだの弱い彫刻家で、二十七歳で病死した)のところへ遊びに行ったが、この兄に連れられて喫茶店なるものにはいってみると、そこにはたいていキザに気取った色の白いやさ男がいて、兄は小声で、あれは新進作家の何の誰だ、と私に教え、私はなんてまあ浅墓《あさはか》な軽薄そうな男だろうと呆《あき》れ、つくづく芸術家という種族の人間を嫌悪した。
私は上品な芸術家に疑惑を抱《いだ》き、「うつくしい」芸術家を否定した。田舎者の私には、どうもあんなものは、キザで仕様が無かったのである。
ベックリンという海の妖怪《ようかい》などを好んでかく画家の事は、どなたもご存じの事と思う。あの人の画は、それこそ少し青くさくて、決していいものでないけれども、たしか「芸術家」と題する一枚の画があった。それは大海の孤島に緑の葉の繁ったふとい樹木が一本|生《は》えていて、その樹の蔭《かげ》にからだをかくして小さい笛を吹いているまことにどうも汚ならしいへんな生き物がいる。かれは自分の汚いからだをかくして笛を吹いている。孤島の波打際《なみうちぎわ》に、美しい人魚があつまり、うっとりとその笛の音に耳を傾けている。もし彼女が、ひとめその笛の音の主の姿を見たならば、きゃっと叫んで悶絶《もんぜつ》するに違いない。芸術家はそれゆえ、自分のからだをひた隠しに隠して、ただその笛の音だけを吹き送る。
ここに芸術家の悲惨な孤独の宿命もあるのだし、芸術の身を切られるような真の美しさ、気高さ、えい何と言ったらいいのか、つまり芸術さ、そいつが在るのだ。
私は断言する。真の芸術家は醜いものだ。喫茶店のあの気取った色男は、にせものだ。アンデルセンの「あひるの子」という話を知っているだろう。小さな可愛《かわい》いあひるの雛《ひな》の中に一匹、ひどくぶざまで醜い雛がまじっていて、皆の虐待と嘲笑《ちょうしょう》の的になる。意外にもそれは、スワンの雛であった。巨匠の青年時代は、例外なく醜い。それは決してサロン向きの可愛げのあるものでは無かった。
お上品なサロンは、人間の最も恐るべき堕落だ。しからば、どこの誰をまずまっさきに糾弾すべきか。自分である。私である。太宰治とか称する、この妙に気取った男である。生活は秩序正しく、まっ白なシーツに眠るというのは、たいへん結構な事だが、(それは何としても否定できない魅力である!)しかし、自分ひとり大いに努力してその境地を獲得した途端に、急に人が変って様子ぶった男になり、かねてあんなに憎悪《ぞうお》していたサロンにも出入し、いや出入どころか、自分からチャチなサロンを開設し半可通どもの先生になりはしないか。何せどうも、気が弱くてだらしない癖に、相当虚栄心も強くて、ひとにおだてられるとわくわくして何をやり出すかわかったもんじゃない男なのだから。
私はそのような成行きに対して、極度におびえていた。私がもしサロン的なお上品の家庭生活を獲得したならば、それは明らかに誰かを裏切った事になると考えていた。私は、いやらしいくらいに小心な債務家のようなものであった。
私は私の家庭生活を、つぎつぎと破壊した。破壊しようとする強い意志が無くとも、おのずから、つぎつぎと崩壊した。私が昭和五年に弘前の高等学校を卒業して大学へはいり、東京に住むようになってから今まで、いったい何度、転居したろう。その転居も、決して普通の形式ではなかった。私はたいてい全部を失い、身一つでのがれ去り、あらたにまた別の土地で、少しずつ身のまわりの品を都合するというような有様であった。戸塚。本所《ほんじょ》。鎌倉の病室。五反田《ごたんだ》。同朋町《どうほうちょう》。和泉町《いずみちょう》。柏木《かしわぎ》。新富町《しんとみちょう》。八丁堀。白金三光町《しろがねさんこうちょう》。この白金三光町の大きな空家《あきや》の、離れの一室で私は「思い出」などを書いていた。天沼《あまぬま》三丁目。天沼一丁目。阿佐《あさ》ヶ|谷《や》の病室。経堂《きょうどう》の病室。千葉県船橋。板橋の病室。天沼のアパート。天沼の下宿。甲州|御坂峠《みさかとうげ》。甲府市の下宿。甲府市郊外の家。東京都下|三鷹町《みたかまち》。甲府水門町。甲府新柳町。津軽。
忘れているところもあるかも知れないが、これだけでも既に二十五回の転居である。いや、二十五回の破産である。私は、一年に二回ずつ破産してはまた出発し直して生きて来ていたわけである。そうしてこれから私の家庭生活は、どういう事になるのか、まるっきり見当もつかない。
以上挙げた二十五箇所の中で、私には千葉船橋町の家が最も愛着が深かった。私はそこで、「ダス・ゲマイネ」というのや、また「虚構の春」などという作品を書いた。どうしてもその家から引き上げなければならなくなった日に、私は、たのむ! もう一晩この家に寝かせて下さい、玄関の夾竹桃《きょうちくとう》も僕が植えたのだ、庭の青桐《あおぎり》も僕が植えたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れていない。一ばん永く住んでいたのは、三鷹町|下連雀《しもれんじゃく》の家であろう。大戦の前から住んでいたのだが、ことしの春に爆弾でこわされたので、甲府市水門町の妻の実家へ移転した。しかるに、移転して三月目にその家が焼夷弾《しょういだん》で丸焼けになったので、まちはずれの新柳町の或る家へ一時立ち退き、それからどうせ死ぬなら故郷で、という気持から子供二人を抱《かか》えて津軽の生家へ来たのであるが、来て二週目に、あの御放送があった、というのが、私のこれまでの浪々生活の、あらましの経緯である。
私は既に三十七歳になっている。そうしてまたもや無一物の再出発をしなければならなくなった。やっぱり、サロン思想嫌悪の情を以《もっ》て。
創作年表とでも称すべき手帳を繰ってみると、まあ、過去十何年間、どのとしも、どの年も、ひでえみじめな思いばかりして来たのが、よくわかる。いったい私たちの年代の者は、過去二十年間、ひでえめにばかり遭《あ》って来た。それこそ怒濤《どとう》の葉っぱだった。めちゃ苦茶だった。はたちになるやならずの頃に、既に私たちの殆《ほと》んど全部が、れいの階級闘争に参加し、或る者は投獄され、或る者は学校を追われ、或る者は自殺した。東京に出てみると、ネオンの森である。曰《いわ》く、フネノフネ。曰く、クロネコ。曰く、美人座。何が何やら、あの頃の銀座、新宿のまあ賑《にぎわ》い。絶望の乱舞である。遊ばなければ損だとばかりに眼つきをかえて酒をくらっている。つづいて満洲事変。五・一五だの、二・二六だの、何の面白くもないような事ばかり起って、いよいよ支那事変《しなじへん》になり、私たちの年頃の者は皆戦争に行かなければならなくなった。事変はいつまでも愚図愚図つづいて、蒋介石《しょうかいせき》を相手にするのしないのと騒ぎ、結局どうにも形がつかず、こんどは敵は米英という事になり、日本の老若男女すべてが死ぬ覚悟を極《きわ》めた。
実に悪い時代であった。その期間に、愛情の問題だの、信仰だの、芸術だのと言って、自分の旗を守りとおすのは、実に至難の事業であった。この後だって楽じゃない。こんな具合じゃ仕様が無い。また十何年か前のフネノフネ時代にかえったんでは意味が無い。戦争時代がまだよかったなんて事になると、みじめなものだ。うっかりすると、そうなりますよ。どさくさまぎれに一もうけなんて事は、もうこれからは、よすんだね。なんにもならんじゃないか。
昭和十七年、昭和十八年、昭和十九年、昭和二十年、いやもう私たちにとっては、ひどい時代であった。私は三度も点呼を受けさせられ、そのたんびに竹槍《たけやり》突撃の猛訓練などがあり、暁天動員だの何だの、そのひまひまに小説を書いて発表すると、それが情報局に、にらまれているとかいうデマが飛んで、昭和十八年に「右大臣|実朝《さねとも》」という三百枚の小説を発表したら、「右大臣《ユダヤジン》実朝」というふざけ切った読み方をして、太宰は実朝をユダヤ人として取り扱っている、などと何が何やら、ただ意地悪く私を非国民あつかいにして弾劾しようとしている愚劣な「忠臣」もあった。私の或る四十枚の小説は発表直後、はじめから終りまで全文削除を命じられた。また或る二百枚以上の新作の小説は出版不許可になった事もあった。しかし、私は小説を書く事は、やめなかった。もうこうなったら、最後までねばって小説を書いて行かなければ、ウソだと思った。それはもう理窟《りくつ》ではなかった。百姓の糞意地《くそいじ》である。しかし、私は何もここで、誰かのように、「余はもともと戦争を欲せざりき。余は日本軍閥の敵なりき。余は自由主義者なり」などと、戦争がすんだら急に、東条の悪口を言い、戦争責任云々と騒ぎまわるような新型の便乗主義を発揮するつもりはない。いまではもう、社会主義さえ、サロン思想に堕落している。私はこの時流にもまたついて行けない。
私は戦争中に、東条に呆れ、ヒトラアを軽蔑《けいべつ》し、それを皆に言いふらしていた。けれどもまた私はこの戦争に於いて、大いに日本に味方しようと思った。私など味方になっても、まるでちっともお役にも何も立たなかったかと思うが、しかし、日本に味方するつもりでいた。この点を明確にして置きたい。この戦争には、もちろんはじめから何の希望も持てなかったが、しかし、日本は、やっちゃったのだ。
昭和十四年に書いた私の「火の鳥」という未完の長編小説に、次のような一節がある。これを読んでくれると、私がさきにもちょっと言って置いたような「親が破産しかかって、せっぱつまり、見えすいたつらい嘘をついている時、子供がそれをすっぱ抜けるか。運命窮まると観じて、黙って共に討死さ。」という事の意味がさらにはっきりして来ると思われる。
すなわち、
(前略)長火鉢《ながひばち》へだてて、老母は瀬戸の置き物のように綺麗《きれい》に、ちんまり坐って、伏目がち、やがて物語ることには、──あれは、わたくしの一人息子で、あんな化け物みたいな男ですが、でも、わたくしは信じている。あれの父親は、ことしで、あけて、七年まえに死にました。まあ、昔自慢してあわれなことでございますが、父の達者な頃は、前橋《まえばし》で、ええ、国は上州《じょうしゅう》でございます。前橋でも一流中の一流の割烹店《かっぽうてん》でございました。大臣
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