私はいま、自分の創作年表とでも称すべき焼け残りの薄汚い手帳のペエジを繰りながら、さまざまの回想にふける。私がはじめて東京で作品を発表した昭和八年から、二十年まで、その十二箇年間、私はあのサロンの連中とはまるっきり違った歩調であるいて来た。これではあの者たちと永遠に溶け合わないのも無理がない。あれは昭和二、三年の頃であったろうか。私がまだ弘前《ひろさき》高等学校の文科生であって、しばしば東京の兄(この兄はからだの弱い彫刻家で、二十七歳で病死した)のところへ遊びに行ったが、この兄に連れられて喫茶店なるものにはいってみると、そこにはたいていキザに気取った色の白いやさ男がいて、兄は小声で、あれは新進作家の何の誰だ、と私に教え、私はなんてまあ浅墓《あさはか》な軽薄そうな男だろうと呆《あき》れ、つくづく芸術家という種族の人間を嫌悪した。
私は上品な芸術家に疑惑を抱《いだ》き、「うつくしい」芸術家を否定した。田舎者の私には、どうもあんなものは、キザで仕様が無かったのである。
ベックリンという海の妖怪《ようかい》などを好んでかく画家の事は、どなたもご存じの事と思う。あの人の画は、それこそ少し青
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