だから、誰にも怪しまれなかつたのである。葡萄棚は畑の東南の隅にあつて、十坪ぐらゐの大きさにひろがつてゐた。葡萄の熟すころになると、よしずで四方をきちんと圍つた。私たちは片すみの小さい潛戸をあけて、かこひの中へはひつた。なかは、ほつかりと暖かつた。二三匹の黄色いあしながばちが、ぶんぶん言つて飛んでゐた。朝日が、屋根の葡萄の葉と、まはりのよしずを透して明るくさしてゐて、みよの姿もうすみどりいろに見えた。ここへ來る途中には、私もあれこれと計畫して、惡黨らしく口まげて微笑んだりしたのであつたが、かうしてたつた二人きりになつて見ると、あまりの氣づまりから殆ど不氣嫌になつて了つた。私はその板の潛戸をさへわざとあけたままにしてゐたものだ。
 私は脊が高かつたから、踏臺なしに、ぱちんぱちんと植木鋏で葡萄のふさを摘んだ。そして、いちいちそれをみよへ手渡した。みよはその一房一房の朝露を白いエプロンで手早く拭きとつて、下の籠にいれた。私たちはひとことも語らなかつた。永い時間のやうに思はれた。そのうちに私はだんだん怒りつぽくなつた。葡萄がやつと籠いつぱいにならうとするころ、みよは、私の渡す一房へ差し伸べて寄こ
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