出立の日が、あたかも土曜日であつたから、私は母たちを送つて行くといふ名目で、故郷へ戻ることが出來た。友人たちには祕密にしてこつそり出掛けたのである。弟にも歸郷のほんとのわけは言はずに置いた。言はなくても判つてゐるのだと思つてゐた。
 みんなでその温泉場を引きあげ、私たちの世話になつてゐる呉服商へひとまづ落ちつき、それから母と姉と三人で故郷へ向つた。列車がプラツトフオムを離れるとき、見送りに來てゐた弟が、列車の窓から青い富士額を覗かせて、がんばれ、とひとこと言つた。私はそれをうつかり素直に受けいれて、よしよし、と氣嫌よくうなづいた。
 馬車が隣村を過ぎて、次第にうちへ近づいて來ると、私はまつたく落ちつかなかつた。日が暮れて、空も山もまつくらだつた。稻田が秋風に吹かれてさらさらと動く聲に、耳傾けては胸を轟かせた。絶えまなく窓のそとの闇に眼をくばつて、道ばたのすすきのむれが白くぽつかり鼻先に浮ぶと、のけぞるくらゐびつくりした。
 玄關のほの暗い軒燈の下でうちの人たちがうようよ出迎へてゐた。馬車がとまつたとき、みよもばたばた走つて玄關から出て來た。寒さうに肩を丸くすぼめてゐた。
 その夜、二階
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