した。もし私一個人のためを思つてストライキをするのだつたら、よして呉れ、私はあの教師を憎んでゐない、事件は簡單なのだ、簡單なのだ、と生徒たちに頼みまはつた。友人たちは私を卑怯だとか勝手だとか言つた。私は息苦しくなつて、その教室から出て了つた。温泉場の家へ歸つて、私はすぐ湯にはひつた。野分にたたかれて破れつくした二三枚の芭蕉の葉が、その庭の隅から湯槽のなかへ青い影を落してゐた。私は湯槽のふちに腰かけながら生きた氣もせず思ひに沈んだ。
 恥しい思ひ出に襲はれるときにはそれを振りはらふために、ひとりして、さて、と呟く癖が私にあつた。簡單なのだ、簡單なのだ、と囁いて、あちこちをうろうろしてゐた自身の姿を想像して私は、湯を掌で掬つてはこぼし掬つてはこぼししながら、さて、さて、と何囘も言つた。
 あくる日、その教師が私たちにあやまつて、結局ストライキは起らなかつたし、友人たちともわけなく仲直り出來たけれど、この災難は私を暗くした。みよのことなどしきりに思ひ出された。つひには、みよと逢はねば自分がこのまま墮落してしまひさうにも、考へられたのである。
 ちやうど母も姉も湯治からかへることになつて、その
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