つことができなかつた。けれどもひとりでゐるときには、私はもつと大膽だつた筈である。鏡の私の顏へ、片眼をつぶつて笑ひかけたり、机の上に小刀で薄い唇をほりつけて、それへ私の唇をのせたりした。この唇には、あとで赤いインクを塗つてみたが、妙にどすぐろくなつていやな感じがして來たから、私は小刀ですつかり削りとつて了つた。
 私が三年生になつて、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかつて、私はしばらくぼんやりしてゐた。橋の下には隅田川に似た廣い川がゆるゆると流れてゐた。全くぼんやりしてゐる經驗など、それまでの私にはなかつたのである。うしろで誰か見てゐるやうな氣がして、私はいつでも何かの態度をつくつてゐたのである。私のいちいちのこまかい仕草にも、彼は當惑して掌を眺めた、彼は耳の裏を掻きながら呟いた、などと傍から傍から説明句をつけてゐたのであるから、私にとつて、ふと、とか、われしらず、とかいふ動作はあり得なかつたのである。橋の上での放心から覺めたのち、私は寂しさにわくわくした。そんな氣持のときには、私もまた、自分の來しかた行末を考へた。橋をかたかた渡りながら、いろんな事を思
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