續けたが、私はそのことで長兄と氣まづいことを起してしまつた。
長兄は私の文學に熱狂してゐるらしいのを心配して、郷里から長い手紙をよこしたのである。化學には方程式あり幾何には定理があつて、それを解する完全な鍵が與へられてゐるが、文學にはそれがないのです、ゆるされた年齡、環境に達しなければ文學を正當に掴むことが不可能と存じます、と物堅い調子で書いてあつた。私もさうだと思つた。しかも私は、自分をその許された人間であると信じた。私はすぐ長兄へ返事した。兄上の言ふことは本當だと思ふ、立派な兄を持つことは幸福である、しかし、私は文學のために勉強を怠ることがない、その故にこそいつそう勉強してゐるほどである、と誇張した感情をさへところどころにまぜて長兄へ告げてやつたのである。
なにはさてお前は衆にすぐれてゐなければいけないのだ、といふ脅迫めいた考へからであつたが、じじつ私は勉強してゐたのである。三年生になつてからは、いつもクラスの首席であつた。てんとりむしと言はれずに首席になることは困難であつたが、私はそのやうな嘲りを受けなかつた許りか、級友を手ならす術まで心得てゐた。蛸といふあだなの柔道の主將さへ私には從順であつた。教室の隅に紙屑入の大きな壺があつて、私はときたまそれを指さして、蛸もつぼへはひらないかと言へば、蛸はその壺へ頭をいれて笑ふのだ。笑ひ聲が壺に響いて異樣な音をたてた。クラスの美少年たちもたいてい私になついてゐた。私が顏の吹出物へ、三角形や六角形や花の形に切つた絆創膏をてんてんと貼り散らしても誰も可笑しがらなかつた程なのである。
私はこの吹出物には心をなやまされた。そのじぶんにはいよいよ數も殖えて、毎朝、眼をさますたびに掌で顏を撫でまはしてその有樣をしらべた。いろいろな藥を買つてつけたが、ききめがないのである。私はそれを藥屋へ買ひに行くときには、紙きれへその藥の名を書いて、こんな藥がありますかつて、と他人から頼まれたふうにして言はなければいけなかつたのである。私はその吹出物を欲情の象徴と考へて眼の先が暗くなるほど恥しかつた。いつそ死んでやつたらと思ふことさへあつた。私の顏に就いてのうちの人たちの不評判も絶頂に達してゐた。他家へとついでゐた私のいちばん上の姉は、治のところへは嫁に來るひとがあるまい、とまで言つてゐたさうである。私はせつせと藥をつけた。
弟も私の吹出物を心配して、なんべんとなく私の代りに藥を買ひに行つて呉れた。私と弟とは子供のときから仲がわるくて、弟が中學へ受驗する折にも、私は彼の失敗を願つてゐたほどであつたけれど、かうしてふたりで故郷から離れて見ると、私にも弟のよい氣質がだんだん判つて來たのである。弟は大きくなるにつれて無口で内氣になつてゐた。私たちの同人雜誌にもときどき小品文を出してゐたが、みんな氣の弱々した文章であつた。私にくらべて學校の成績がよくないのを絶えず苦にしてゐて、私がなぐさめでもするとかへつて不氣嫌になつた。また、自分の額の生えぎはが富士のかたちに三角になつて女みたいなのをいまいましがつてゐた。額がせまいから頭がこんなに惡いのだと固く信じてゐたのである。私はこの弟にだけはなにもかも許した。私はその頃、人と對するときには、みんな押し隱して了ふか、みんなさらけ出して了ふか、どちらかであつたのである。私たちはなんでも打ち明けて話した。
秋のはじめの或る月のない夜に、私たちは港の棧橋へ出て、海峽を渡つてくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い絲について話合つた。それはいつか學校の國語の教師が授業中に生徒へ語つて聞かせたことであつて、私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い絲がむすばれてゐて、それがするすると長く伸びて一方の端がきつと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられてゐるのである、ふたりがどんなに離れてゐてもその絲は切れない、どんなに近づいても、たとひ往來で逢つても、その絲はこんぐらかることがない、さうして私たちはその女の子を嫁にもらふことにきまつてゐるのである。私はこの話をはじめて聞いたときには、かなり興奮して、うちへ歸つてからもすぐ弟に物語つてやつたほどであつた。私たちはその夜も、波の音や、かもめの聲に耳傾けつつ、その話をした。お前のワイフは今ごろどうしてるべなあ、と弟に聞いたら、弟は棧橋のらんかんを二三度兩手でゆりうごかしてから、庭あるいてる、ときまり惡げに言つた。大きい庭下駄をはいて、團扇をもつて、月見草を眺めてゐる少女は、いかにも弟と似つかはしく思はれた。私のを語る番であつたが、私は眞暗い海に眼をやつたまま、赤い帶しめての、とだけ言つて口を噤んだ。海峽を渡つて來る連絡船が、大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部屋へ黄色いあかりをともして、ゆらゆらと水平線から浮んで出た。
これだけは弟にもかくしてゐ
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