行つてその顏をして見せると、姉は腹をおさへて寢臺の上をころげ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた。姉はうちから連れて來た中年の女中とふたりきりで病院に暮してゐたものだから、ずゐぶん淋しがつて、病院の長い廊下をのしのし歩いて來る私の足音を聞くと、もうはしやいでゐた。私の足音は並はづれて高いのだ。私が若し一週間でも姉のところを訪れないと、姉は女中を使つて私を迎ひによこした。私が行かないと、姉の熱は不思議にあがつて容態がよくない、とその女中が眞顏で言つてゐた。
 その頃はもう私も十五六になつてゐたし、手の甲には靜脈の青い血管がうつすりと透いて見えて、からだも異樣におもおもしく感じられてゐた。私は同じクラスのいろの黒い小さな生徒とひそかに愛し合つた。學校からの歸りにはきつと二人してならんで歩いた。お互ひの小指がすれあつてさへも、私たちは顏を赤くした。いつぞや、二人で學校の裏道の方を歩いて歸つたら、芹やはこべの青々と伸びてゐる田溝の中にゐもりがいつぴき浮いてゐるのをその生徒が見つけ、默つてそれを掬つて私に呉れた。私は、ゐもりは嫌ひであつたけれど、嬉しさうにはしやぎながらそれを手巾へくるんだ。うちへ持つて歸つて、中庭の小さな池に放した。ゐもりは短い首をふりふり泳ぎ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐたが、次の朝みたら逃げて了つてゐなかつた。
 私はたかい自矜の心を持つてゐたから、私の思ひを相手に打ち明けるなど考へもつかぬことであつた。その生徒へは普段から口もあんまり利かなかつたし、また同じころ隣の家の痩せた女學生をも私は意識してゐたのだが、此の女學生とは道で逢つても、ほとんどその人を莫迦にしてゐるやうにぐつと顏をそむけてやるのである。秋のじぶん、夜中に火事があつて、私も起きて外へ出て見たら、つい近くの社《やしろ》の陰あたりが火の粉をちらして燃えてゐた。社《やしろ》の杉林がその焔を圍ふやうにまつくろく立つて、そのうへを小鳥がたくさん落葉のやうに狂ひ飛んでゐた。私は、隣のうちの門口から白い寢卷の女の子が私の方を見てゐるのを、ちやんと知つてゐながら、横顏だけをそつちにむけてじつと火事を眺めた。焔の赤い光を浴びた私の横顏は、きつときらきら美しく見えるだらうと思つてゐたのである。こんな案配であつたから、私はまへの生徒とでも、また此の女學生とでも、もつと進んだ交渉を持つことができなかつた。けれどもひとりでゐるときには、私はもつと大膽だつた筈である。鏡の私の顏へ、片眼をつぶつて笑ひかけたり、机の上に小刀で薄い唇をほりつけて、それへ私の唇をのせたりした。この唇には、あとで赤いインクを塗つてみたが、妙にどすぐろくなつていやな感じがして來たから、私は小刀ですつかり削りとつて了つた。
 私が三年生になつて、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかつて、私はしばらくぼんやりしてゐた。橋の下には隅田川に似た廣い川がゆるゆると流れてゐた。全くぼんやりしてゐる經驗など、それまでの私にはなかつたのである。うしろで誰か見てゐるやうな氣がして、私はいつでも何かの態度をつくつてゐたのである。私のいちいちのこまかい仕草にも、彼は當惑して掌を眺めた、彼は耳の裏を掻きながら呟いた、などと傍から傍から説明句をつけてゐたのであるから、私にとつて、ふと、とか、われしらず、とかいふ動作はあり得なかつたのである。橋の上での放心から覺めたのち、私は寂しさにわくわくした。そんな氣持のときには、私もまた、自分の來しかた行末を考へた。橋をかたかた渡りながら、いろんな事を思ひ出し、また夢想した。そして、おしまひに溜息ついてかう考へた。えらくなれるかしら。その前後から、私はこころのあせりをはじめてゐたのである。私は、すべてに就いて滿足し切れなかつたから、いつも空虚なあがきをしてゐた。私には十重二十重の假面がへばりついてゐたので、どれがどんなに悲しいのか、見極めをつけることができなかつたのである。そしてたうとう私は或るわびしいはけ口を見つけたのだ。創作であつた。ここにはたくさんの同類がゐて、みんな私と同じやうに此のわけのわからぬをののきを見つめてゐるやうに思はれたのである。作家にならう、作家にならう、と私はひそかに願望した。弟もそのとし中學校へはひつて、私とひとつ部屋に寢起してゐたが、私は弟と相談して、初夏のころに五六人の友人たちを集め同人雜誌をつくつた。私の居るうちの筋向ひに大きい印刷所があつたから、そこへ頼んだのである。表紙も石版でうつくしく刷らせた。クラスの人たちへその雜誌を配つてやつた。私はそれへ毎月ひとつづつ創作を發表したのである。はじめは道徳に就いての哲學者めいた小説を書いた。一行か二行の斷片的な隨筆をも得意としてゐた。この雜誌はそれから一年ほど
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