よけい氣もひけて、尚のことこんな反撥をしたのであつた。
 冬ちかくなつて、私も中學校への受驗勉強を始めなければいけなくなつた。私は雜誌の廣告を見て、東京へ色々の參考書を注文した。けれども、それを本箱に並べただけで、ちつとも讀まなかつた。私の受驗することになつてゐた中學校は、縣でだいいちのまちに在つて、志願者も二三倍は必ずあつたのである。私はときどき落第の懸念に襲はれた。そんな時には私も勉強をした。そして一週間もつづけて勉強すると、すぐ及第の確信がついて來るのだ。勉強するとなると、夜十二時ちかくまで床につかないで、朝はたいてい四時に起きた。勉強中は、たみといふ女中を傍に置いて、火をおこさせたり茶をわかさせたりした。たみは、どんなにおそくまで宵つぱりしても翌る朝は、四時になると必ず私を起しに來た。私が算術の鼠が子を産む應用問題などに困らされてゐる傍で、たみはおとなしく小説本を讀んでゐた。あとになつて、たみの代りに年とつた肥えた女中が私へつくやうになつたが、それが母のさしがねである事を知つた私は、母のその底意を考へて顏をしかめた。
 その翌春、雪のまだ深く積つてゐた頃、私の父は東京の病院で血を吐いて死んだ。ちかくの新聞社は父の訃を號外で報じた。私は父の死よりも、かういふセンセイシヨンの方に興奮を感じた。遺族の名にまじつて私の名も新聞に出てゐた。父の死骸は大きい寢棺に横たはり橇に乘つて故郷へ歸つて來た。私は大勢のまちの人たちと一緒に隣村近くまで迎へに行つた。やがて森の蔭から幾臺となく續いた橇の幌が月光を受けつつ滑つて出て來たのを眺めて私は美しいと思つた。
 つぎの日、私のうちの人たちは父の寢棺の置かれてある佛間に集つた。棺の蓋が取りはらはれるとみんな聲をたてて泣いた。父は眠つてゐるやうであつた。高い鼻筋がすつと青白くなつてゐた。私は皆の泣聲を聞き、さそはれて涙を流した。
 私の家はそのひとつきもの間、火事のやうな騷ぎであつた。私はその混雜にまぎれて、受驗勉強を全く怠つたのである。高等小學校の學年試驗にも殆ど出鱈目な答案を作つて出した。私の成績は全體の三番かそれくらゐであつたが、これは明らかに受持訓導の私のうちに對する遠慮からであつた。私はそのころ既に記憶力の減退を感じてゐて、したしらべでもして行かないと試驗には何も書けなかつたのである。私にとつてそんな經驗は始めてであつた。

       二章

 いい成績ではなかつたが、私はその春、中學校へ受驗して合格をした。私は、新しい袴と黒い沓下とあみあげの靴をはき、いままでの毛布をよして羅紗のマントを洒落者らしくボタンをかけずに前をあけたまま羽織つて、その海のある小都會へ出た。そして私のうちと遠い親戚にあたるそのまちの呉服店で旅裝を解いた。入口にちぎれた古いのれんをさげてあるその家へ、私はずつと世話になることになつてゐたのである。
 私は何ごとにも有頂天になり易い性質を持つてゐるが、入學當時は錢湯へ行くのにも學校の制帽を被り、袴をつけた。そんな私の姿が往來の窓硝子にでも映ると、私は笑ひながらそれへ輕く會釋をしたものである。
 それなのに、學校はちつとも面白くなかつた。校舍は、まちの端れにあつて、しろいペンキで塗られ、すぐ裏は海峽に面したひらたい公園で、浪の音や松のざわめきが授業中でも聞えて來て、廊下も廣く教室の天井も高くて、私はすべてにいい感じを受けたのだが、そこにゐる教師たちは私をひどく迫害したのである。
 私は入學式の日から、或る體操の教師にぶたれた。私が生意氣だといふのであつた。この教師は入學試驗のとき私の口答試問の係りであつたが、お父さんがなくなつてよく勉強もできなかつたらう、と私に情ふかい言葉をかけて呉れ、私もうなだれて見せたその人であつただけに、私のこころはいつそう傷けられた。そののちも私は色んな教師にぶたれた。にやにやしてゐるとか、あくびをしたとか、さまざまな理由から罰せられた。授業中の私のあくびが大きいので職員室で評判である、とも言はれた。私はそんな莫迦げたことを話し合つてゐる職員室を、をかしく思つた。
 私と同じ町から來てゐる一人の生徒が、或る日、私を校庭の砂山の陰に呼んで、君の態度はじつさい生意氣さうに見える、あんなに毆られてばかりゐると落第するにちがひない、と忠告して呉れた。私は愕然とした。その日の放課後、私は海岸づたひにひとり家路を急いだ。靴底を浪になめられつつ溜息ついて歩いた。洋服の袖で額の汗を拭いてゐたら、鼠色のびつくりするほど大きい帆がすぐ眼の前をよろよろととほつて行つた。
 私は散りかけてゐる花瓣であつた。すこしの風にもふるへをののいた。人からどんな些細なさげすみを受けても死なん哉と悶えた。私は、自分を今にきつとえらくなるものと思つてゐたし、英雄としての名譽を
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