鳥渡笑つたといふので、文字通り弟を毆り倒した。けれども私は矢張り心配になつて、弟の頭に出來たいくつかの瘤へ不可飮《ふかいん》といふ藥をつけてやつた。
私は姉たちには可愛がられた。いちばん上の姉は死に、次の姉は嫁ぎ、あとの二人の姉はそれぞれ違ふまちの女學校へ行つてゐた。私の村には汽車がなかつたので、三里ほど離れた汽車のあるまちと往き來するのに、夏は馬車、冬は橇、春の雪解けの頃や秋のみぞれの頃は歩くより他なかつたのである。姉たちは橇に醉ふので、冬やすみの時も歩いて歸つた。私はそのつどつど村端れの材木が積まれてあるところまで迎へに出たのである。日がとつぷり暮れても道は雪あかりで明るいのだ。やがて隣村の森のかげから姉たちの提燈《ちやうちん》がちらちら現れると、私は、おう、と大聲あげて兩手を振つた。
上の姉の學校は下の姉の學校よりも小さいまちにあつたので、お土産も下の姉のそれに較べていつも貧しげだつた。いつか上の姉が、なにもなくてえ、と顏を赤くして言ひつつ線香花火を五束《いつたば》六束《むたば》バスケツトから出して私に與へたが、私はそのとき胸をしめつけられる思ひがした。此の姉も亦きりやうがわるいとうちの人たちからいはれいはれしてゐたのである。
上の姉は女學校へはひるまでは、曾祖母とふたりで離座敷に寢起してゐたものだから、曾祖母の娘だとばかり私は思つてゐたほどであつた。曾祖母は私が小學校を卒業する頃なくなつたが、白い着物を着せられ小さくかじかんだ曾祖母の姿を納棺の際ちらと見た私は、この姿がこののちながく私の眼にこびりついたらどうしようと心配した。
私は程なく小學校を卒業したが、からだが弱いからと言ふので、うちの人たちは私を高等小學校に一年間だけ通はせることにした。からだが丈夫になつたら中學へいれてやる、それも兄たちのやうに東京の學校では健康に惡いから、もつと田舍の中學へいれてやる、と父が言つてゐた。私は中學校へなどそれほど入りたくなかつたのだけれどそれでも、からだが弱くて殘念に思ふ、と綴方へ書いて先生たちの同情を強ひたりしてゐた。
この時分には、私の村にも町制が敷かれてゐたが、その高等小學校は私の町と附近の五六ヶ村と共同で出資して作られたものであつて、まちから半里も離れた松林の中に在つた。私は病氣のためにしじゆう學校をやすんでゐたのだけれどその小學校の代表者だつたので、他村からの優等生がたくさん集る高等小學校でも一番になるやう努めなければいけなかつたのである。しかし私はそこでも相變らず勉強をしなかつた。いまに中學生に成るのだ、といふ私の自矜が、その高等小學校を汚く不愉快に感じさせてゐたのだ。私は授業中おもに連續の漫畫をかいた。休憩時間になると、聲色《こわいろ》をつかつてそれを生徒たちへ説明してやつた。そんな漫畫をかいた手帖が四五册もたまつた。机に頬杖ついて教室の外の景色をぼんやり眺めて一時間を過すこともあつた。私は硝子窓の傍に座席をもつてゐたが、その窓の硝子板には蠅がいつぴき押しつぶされてながいことねばりついたままでゐて、それが私の視野の片隅にぼんやりと大きくはひつて來ると、私には雉か山鳩かのやうに思はれ、幾たびとなく驚かされたものであつた。私を愛してゐる五六人の生徒たちと一緒に授業を逃げて、松林の裏にある沼の岸邊に寢ころびつつ、女生徒の話をしたり、皆で着物をまくつてそこにうつすり生えそめた毛を較べ合つたりして遊んだのである。
その學校は男と女の共學であつたが、それでも私は自分から女生徒に近づいたことなどなかつた。私は欲情がはげしいから、懸命にそれをおさへ、女にもたいへん臆病になつてゐた。私はそれまで、二人三人の女の子から思はれたが、いつでも知らない振りをして來たのだつた。帝展の入選畫帳を父の本棚から持ち出しては、その中にひそめられた白い畫に頬をほてらせて眺めいつたり、私の飼つてゐたひとつがひの兎にしばしば交尾させ、その雄兎の脊中をこんもりと丸くする容姿に胸をときめかせたり、そんなことで私はこらへてゐた。私は見え坊であつたから、あの、あんまをさへ誰にも打ちあけなかつた。その害を本で讀んで、それをやめようとさまざまな苦心をしたが、駄目であつた。そのうちに私はそんな遠い學校へ毎日あるいてかよつたお陰で、からだも太つて來た。額の邊にあはつぶのやうな小さい吹出物がでてきた。之も恥かしく思つた。私はそれへ寶丹膏《はうたんかう》といふ藥を眞赤に塗つた。長兄はそのとし結婚して、祝言の晩に私と弟とはその新しい嫂の部屋へ忍んで行つたが、嫂は部屋の入口を脊にして坐つて髮を結はせてゐた。私は鏡に映つた花嫁のほのじろい笑顏をちらと見るなり、弟をひきずつて逃げ歸つた。そして私は、たいしたもんでねえでば! と力こめて強がりを言つた。藥で赤い私の額のために
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