まもつて、たとひ大人の侮りにでも容赦できなかつたのであるから、この落第といふ不名譽も、それだけ致命的であつたのである。その後の私は兢兢として授業を受けた。授業を受けながらも、この教室のなかには眼に見えぬ百人の敵がゐるのだと考へて、少しも油斷をしなかつた。朝、學校へ出掛けしなには、私の机の上へトランプを並べて、その日いちにちの運命を占つた。ハアトは大吉であつた。ダイヤは半吉、クラブは半凶、スペエドは大凶であつた。そしてその頃は、來る日も來る日もスペエドばかり出たのである。
 それから間もなく試驗が來たけれど、私は博物でも地理でも修身でも、教科書の一字一句をそのまま暗記して了ふやうに努めた。これは私のいちかばちかの潔癖から來てゐるのであらうが、この勉強法は私の爲によくない結果を呼んだ。私は勉強が窮屈でならなかつたし、試驗の際も、融通がきかなくて、殆ど完璧に近いよい答案を作ることもあれば、つまらぬ一字一句につまづいて、思索が亂れ、ただ意味もなしに答案用紙を汚してゐる場合もあつたのである。
 しかし私の第一學期の成績はクラスの三番であつた。操行も甲であつた。落第の懸念に苦しまされてゐた私は、その通告簿を片手に握つて、もう一方の手で靴を吊り下げたまま、裏の海岸まではだしで走つた。嬉しかつたのである。
 一學期ををへて、はじめての歸郷のときは、私は故郷の弟たちに私の中學生生活の短い經驗を出來るだけ輝かしく説明したく思つて、私がその三四ヶ月間身につけたすべてのもの、座蒲團のはてまで行李につめた。
 馬車にゆられながら隣村の森を拔けると、幾里四方もの青田の海が展開して、その青田の果てるあたりに私のうちの赤い大屋根が聳えてゐた。私はそれを眺めて十年も見ない氣がした。
 私はその休暇のひとつきほど得意な氣持でゐたことがない。私は弟たちへ中學校のことを誇張して夢のやうに物語つた。その小都會の有樣をも、つとめて幻妖に物語つたのである。
 私は風景をスケツチしたり昆蟲の採集をしたりして、野原や谷川をはしり※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた。水彩畫を五枚ゑがくのと珍らしい昆蟲の標本を十種あつめるのとが、教師に課された休暇中の宿題であつた。私は捕蟲網を肩にかついで、弟にはピンセツトだの毒壺だののはひつた採集鞄を持たせ、もんしろ蝶やばつたを追ひながら一日を夏の野原で過した。夜は庭園で焚火をめらめらと燃やして、飛んで來るたくさんの蟲を網や箒で片つぱしからたたき落した。末の兄は美術學校の塑像科へ入つてゐたが、まいにち中庭の大きい栗の木の下で粘土をいぢくつてゐた。もう女學校を卒へてゐた私のすぐの姉の胸像を作つてゐたのである。私も亦その傍で、姉の顏を幾枚もスケツチして、兄とお互ひの出來上り案配をけなし合つた。姉は眞面目に私たちのモデルになつてゐたが、そんな場合おもに私の水彩畫の方の肩を持つた。この兄は若いときはみんな天才だ、などと言つて、私のあらゆる才能を莫迦にしてゐた。私の文章をさへ、小學生の綴方、と言つて嘲つてゐた。私もその當時は、兄の藝術的な力をあからさまに輕蔑してゐたのである。
 ある晩、その兄が私の寢てゐるところへ來て、治、珍動物だよ、と聲を低くして言ひながら、しやがんで蚊帳の下から鼻紙に輕く包んだものをそつと入れて寄こした。兄は、私が珍らしい昆蟲を集めてゐるのを知つてゐたのだ。包の中では、かさかさと蟲のもがく足音がしてゐた。私は、そのかすかな音に、肉親の情を知らされた。私が手暴くその小さい紙包をほどくと、兄は、逃げるぜえ、そら、そら、と息をつめるやうにして言つた。見ると普通のくはがたむしであつた。私はその鞘翅類をも私の採集した珍昆蟲十種のうちにいれて教師へ出した。
 休暇が終りになると私は悲しくなつた。故郷をあとにし、その小都會へ來て、呉服商の二階で獨りして行李をあけた時には、私はもう少しで泣くところであつた。私は、そんな淋しい場合には、本屋へ行くことにしてゐた。そのときも私は近くの本屋へ走つた。そこに並べられたかずかずの刊行物の背を見ただけでも、私の憂愁は不思議に消えるのだ。その本屋の隅の書棚には、私の欲しくても買へない本が五六册あつて、私はときどき、その前へ何氣なささうに立ち止つては膝をふるはせながらその本の頁を盜み見たものだけれど、しかし私が本屋へ行くのは、なにもそんな醫學じみた記事を讀むためばかりではなかつたのである。その當時私にとつて、どんな本でも休養と慰安であつたからである。
 學校の勉強はいよいよ面白くなかつた。白地圖に山脈や港灣や河川を水繪具で記入する宿題などは、なによりも呪はしかつた。私は物事に凝るはうであつたから、この地圖の彩色には三四時間も費やした。歴史なんかも、教師はわざわざノオトを作らせてそれへ講義の要點を書き込めと
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