だから、誰にも怪しまれなかつたのである。葡萄棚は畑の東南の隅にあつて、十坪ぐらゐの大きさにひろがつてゐた。葡萄の熟すころになると、よしずで四方をきちんと圍つた。私たちは片すみの小さい潛戸をあけて、かこひの中へはひつた。なかは、ほつかりと暖かつた。二三匹の黄色いあしながばちが、ぶんぶん言つて飛んでゐた。朝日が、屋根の葡萄の葉と、まはりのよしずを透して明るくさしてゐて、みよの姿もうすみどりいろに見えた。ここへ來る途中には、私もあれこれと計畫して、惡黨らしく口まげて微笑んだりしたのであつたが、かうしてたつた二人きりになつて見ると、あまりの氣づまりから殆ど不氣嫌になつて了つた。私はその板の潛戸をさへわざとあけたままにしてゐたものだ。
 私は脊が高かつたから、踏臺なしに、ぱちんぱちんと植木鋏で葡萄のふさを摘んだ。そして、いちいちそれをみよへ手渡した。みよはその一房一房の朝露を白いエプロンで手早く拭きとつて、下の籠にいれた。私たちはひとことも語らなかつた。永い時間のやうに思はれた。そのうちに私はだんだん怒りつぽくなつた。葡萄がやつと籠いつぱいにならうとするころ、みよは、私の渡す一房へ差し伸べて寄こした片手を、ぴくつとひつこめた。私は、葡萄をみよの方へおしつけ、おい、と呼んで舌打した。
 みよは、右手の附根を左手できゆつと握つていきんでゐた。刺されたべ、と聞くと、ああ、とまぶしさうに眼を細めた。ばか、と私は叱つて了つた。みよは默つて、笑つてゐた。これ以上私はそこにゐたたまらなかつた。くすりつけてやる、と言つてそのかこひから飛び出した。すぐ母屋へつれて歸つて、私はアンモニアの瓶を帳場の藥棚から搜してやつた。その紫の硝子瓶を、出來るだけ亂暴にみよへ手渡したきりで、自分で塗つてやらうとはしなかつた。
 その日の午後に、私は、近ごろまちから新しく通ひ出した灰色の幌のかかつてあるそまつな乘合自動車にゆすぶられながら、故郷を去つた。うちの人たちは馬車で行け、と言つたのだが、定紋のついて黒くてかてか光つたうちの箱馬車は、殿樣くさくて私にはいやだつたのである。私は、みよとふたりして摘みとつた一籠の葡萄を膝の上にのせて、落葉のしきつめた田舍道を意味ふかく眺めた。私は滿足してゐた。あれだけの思ひ出でもみよに植ゑつけてやつたのは私として精いつぱいのことである、と思つた。みよはもう私のものにきまつた、と
前へ 次へ
全32ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング