出立の日が、あたかも土曜日であつたから、私は母たちを送つて行くといふ名目で、故郷へ戻ることが出來た。友人たちには祕密にしてこつそり出掛けたのである。弟にも歸郷のほんとのわけは言はずに置いた。言はなくても判つてゐるのだと思つてゐた。
みんなでその温泉場を引きあげ、私たちの世話になつてゐる呉服商へひとまづ落ちつき、それから母と姉と三人で故郷へ向つた。列車がプラツトフオムを離れるとき、見送りに來てゐた弟が、列車の窓から青い富士額を覗かせて、がんばれ、とひとこと言つた。私はそれをうつかり素直に受けいれて、よしよし、と氣嫌よくうなづいた。
馬車が隣村を過ぎて、次第にうちへ近づいて來ると、私はまつたく落ちつかなかつた。日が暮れて、空も山もまつくらだつた。稻田が秋風に吹かれてさらさらと動く聲に、耳傾けては胸を轟かせた。絶えまなく窓のそとの闇に眼をくばつて、道ばたのすすきのむれが白くぽつかり鼻先に浮ぶと、のけぞるくらゐびつくりした。
玄關のほの暗い軒燈の下でうちの人たちがうようよ出迎へてゐた。馬車がとまつたとき、みよもばたばた走つて玄關から出て來た。寒さうに肩を丸くすぼめてゐた。
その夜、二階の一間に寢てから、私は非常に淋しいことを考へた。凡俗といふ觀念に苦しめられたのである。みよのことが起つてからは、私もたうとう莫迦になつて了つたのではないか。女を思ふなど、誰にでもできることである。しかし、私のはちがふ、ひとくちには言へぬがちがふ。私の場合は、あらゆる意味で下等でない。しかし、女を思ふほどの者は誰でもさう考へてゐるのではないか。しかし、と私は自身のたばこの煙にむせびながら強情を張つた。私の場合には思想がある!
私はその夜、みよと結婚するに就いて、必ずさけられないうちの人たちとの論爭を思ひ、寒いほどの勇氣を得た。私のすべての行爲は凡俗でない、やはり私はこの世のかなりな單位にちがひないのだ、と確信した。それでもひどく淋しかつた。淋しさが、どこから來るのか判らなかつた。どうしても寢つかれないので、あのあんまをした。みよの事をすつかり頭から拔いてした。みよをよごす氣にはなれなかつたのである。
朝、眼をさますと、秋空がたかく澄んでゐた。私は早くから起きて、むかひの畑へ葡萄を取りに出かけた。みよに大きい竹籠を持たせてついて來させた。私はできるだけ氣輕なふうでみよにさう言ひつけたの
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