思ひ出
太宰治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)生《い》き神樣《がみさま》

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(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して
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       一章

 黄昏のころ私は叔母と並んで門口に立つてゐた。叔母は誰かをおんぶしてゐるらしく、ねんねこを着て居た。その時の、ほのぐらい街路の靜けさを私は忘れずにゐる。叔母は、てんしさまがお隱れになつたのだ、と私に教へて、生《い》き神樣《がみさま》、と言ひ添へた。いきがみさま、と私も興深げに呟いたやうな氣がする。それから、私は何か不敬なことを言つたらしい。叔母は、そんなことを言ふものでない、お隱れになつたと言へ、と私をたしなめた。どこへお隱れになつたのだらう、と私は知つてゐながら、わざとさう尋ねて叔母を笑はせたのを思ひ出す。
 私は明治四十二年の夏の生れであるから、此の大帝崩御のときは數へどしの四つをすこし越えてゐた。多分おなじ頃の事であつたらうと思ふが、私は叔母とふたりで私の村から二里ほどはなれた或る村の親類の家へ行き、そこで見た瀧を忘れない。瀧は村にちかい山の中にあつた。青々と苔の生えた崖から幅の廣い瀧がしろく落ちてゐた。知らない男の人の肩車に乘つて私はそれを眺めた。何かの社《やしろ》が傍にあつて、その男の人が私にそこのさまざまな繪馬を見せたが私は段々とさびしくなつて、がちや、がちや、と泣いた。私は叔母をがちやと呼んでゐたのである。叔母は親類のひとたちと遠くの窪地に毛氈を敷いて騷いでゐたが、私の泣き聲を聞いて、いそいで立ち上つた。そのとき毛氈が足にひつかかつたらしく、お辭儀でもするやうにからだを深くよろめかした。他のひとたちはそれを見て、醉つた、醉つたと叔母をはやしたてた。私は遙かはなれてこれを見おろし、口惜《くや》しくて口惜《くや》しくて、いよいよ大聲を立てて泣き喚いた。またある夜、叔母が私を捨てて家を出て行く夢を見た。叔母の胸は玄關のくぐり戸いつぱいにふさがつてゐた。その赤くふくれた大きい胸から、つぶつぶの汗がしたたつてゐた。叔母は、お前がいやになつた、とあらあらしく呟くのである。私は叔母のその乳房に頬をよせて、さうしないでけんせ、と願ひつつしきりに涙を
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