箱はそこから出た。
 私はこのことから勇氣を百倍にもして取りもどし、まへからの決意にふたたび眼ざめたのである。しかし、弟のことを思ふとやはり氣がふさがつて、みよのわけで友人たちと騷ぐことをも避けたし、そのほか弟には、なにかにつけていやしい遠慮をした。自分から進んでみよを誘惑することもひかへた。私はみよから打ち明けられるのを待つことにした。私はいくらでもその機會をみよに與へることができたのだ。私は屡々みよを部屋へ呼んで要らない用事を言ひつけた。そして、みよが私の部屋へはひつて來るときには、私はどこかしら油斷のあるくつろいだ恰好をして見せたのである。みよの心を動かすために、私は顏にも氣をくばつた。その頃になつて私の顏の吹出物もどうやら直つてゐたが、それでも惰性で、私はなにかと顏をこしらへてゐた。私はその蓋のおもてに蔦のやうな長くくねつた蔓草がいつぱい彫り込まれてある美しい銀のコンパクトを持つてゐた。それでもつて私のきめを時折うめてゐたのだけれど、それを尚すこし心をいれてしたのである。
 これからはもう、みよの決心しだいであると思つた。しかし、機會はなかなか來なかつたのである。番小屋で勉強してゐる間も、ときどきそこから脱け出て、みよを見に母屋へ歸つた。殆どあらつぽい程ばたんばたんとはき掃除してゐるみよの姿を、そつと眺めては唇をかんだ。
 そのうちにたうとう夏やすみも終りになつて、私は弟や友人たちとともに故郷を立ち去らなければいけなくなつた。せめて此のつぎの休暇まで私を忘れさせないで置くやうな何か鳥渡した思ひ出だけでも、みよの心に植ゑつけたいと念じたが、それも駄目であつた。
 出發の日が來て、私たちはうちの黒い箱馬車へ乘り込んだ。うちの人たちと並んで玄關先へ、みよも見送りに立つてゐた。みよは、私の方も弟の方も、見なかつた。はづした萌黄のたすきを珠數のやうに兩手でつまぐりながら下ばかりを向いてゐた。いよいよ馬車が動き出してもさうしてゐた。私はおほきい心殘りを感じて故郷を離れたのである。
 秋になつて、私はその都會から汽車で三十分ぐらゐかかつて行ける海岸の温泉地へ、弟をつれて出掛けた。そこには、私の母と病後の末の姉とが家を借りて湯治してゐたのだ。私はずつとそこへ寢泊りして、受驗勉強をつづけた。私は秀才といふぬきさしならぬ名譽のために、どうしても、中學四年から高等學校へはひつて見
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