言ひつけたが、教師の講義は教科書を讀むやうなものであつたから、自然とそのノオトへも教科書の文章をそのまま書き寫すよりほかなかつたのである。私はそれでも成績にみれんがあつたので、そんな宿題を毎日せい出してやつたのである。秋になると、そのまちの中等學校どうしの色色なスポオツの試合が始つた。田舍から出て來た私は、野球の試合など見たことさへなかつた。小説本で、滿壘《フルベエス》とか、アタツクシヨオトとか、中堅《センタア》とか、そんな用語を覺えてゐただけであつて、やがて其の試合の觀方をおぼえたけれど餘り熱狂できなかつた。野球ばかりでなく、庭球でも、柔道でも、なにか他校と試合のある度に私も應援團の一人として、選手たちに聲援を與へなければならなかつたのであるが、そのことが尚さら中學生生活をいやなものにして了つた。應援團長といふのがあつて、わざと汚い恰好で日の丸の扇子などを持ち、校庭の隅の小高い岡にのぼつて演説をすれば、生徒たちはその團長の姿を、むさい、むさい、と言つて喜ぶのである。試合のときは、ひとゲエムのあひまあひまに團長が扇子をひらひらさせて、オオル・スタンド・アツプと叫んだ。私たちは立ち上つて、紫の小さい三角旗を一齊にゆらゆら振りながら、よい敵よい敵けなげなれども、といふ應援歌をうたふのである。そのことは私にとつて恥しかつた。私は、すきを見ては、その應援から逃げて家へ歸つた。
 しかし、私にもスポオツの經驗がない譯ではなかつたのである。私の顏が蒼黒くて、私はそれを例のあんまの故であると信じてゐたので、人から私の顏色を言はれると、私のその祕密を指摘されたやうにどぎまぎした。私は、どんなにかして血色をよくしたく思ひ、スポオツをはじめたのである。
 私はよほど前からこの血色を苦にしてゐたものであつた。小學校四五年のころ、末の兄からデモクラシイといふ思想を聞き、母までデモクラシイのため税金がめつきり高くなつて作米の殆どみんなを税金に取られる、と客たちにこぼしてゐるのを耳にして、私はその思想に心弱くうろたへた。そして、夏は下男たちの庭の草刈に手つだひしたり、冬は屋根の雪おろしに手を貸したりなどしながら、下男たちにデモクラシイの思想を教へた。さうして、下男たちは私の手助けを餘りよろこばなかつたのをやがて知つた。私の刈つた草などは後からまた彼等が刈り直さなければいけなかつたらしいのである
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