思って憎む事があるに違いないのだ。それを考えたら、私の恋も、一時にさめ果てたような気持になって、下駄の鼻緒をすげかえ、立ってはたはたと手を打ち合せて両手のよごれを払い落しながら、わびしさが猛然と身のまわりに押し寄せて来る気配に堪えかね、お座敷に駈《か》け上って、まっくら闇の中で奥さまのお手を掴《つか》んで泣こうかしらと、ぐらぐら烈《はげ》しく動揺したけれども、ふと、その後の自分のしらじらしい何とも形のつかぬ味気無い姿を考え、いやになり、
「ありがとうございました」
 と、ばか叮嚀《ていねい》なお辞儀をして、外へ出て、こがらしに吹かれ、戦闘、開始、恋する、すき、こがれる、本当に恋する、本当にすき、本当にこがれる、恋いしいのだから仕様が無い、すきなのだから仕様が無い、こがれているのだから仕様が無い、あの奥さまはたしかに珍らしくいいお方、あのお嬢さんもお綺麗《きれい》だ、けれども私は、神の審判の台に立たされたって、少しも自分をやましいとは思わぬ、人間は、恋と革命のために生れて来たのだ、神も罰し給《たま》う筈《はず》が無い、私はみじんも悪くない、本当にすきなのだから大威張り、あのひとに一目お逢いするまで、二晩でも三晩でも野宿しても、必ず。
 駅前の白石というおでんやは、すぐに見つかった。けれども、あのひとはいらっしゃらない。
「阿佐ヶ谷ですよ、きっと。阿佐ヶ谷駅の北口をまっすぐにいらして、そうですね、一丁半かな? 金物屋さんがありますからね、そこから右へはいって、半丁かな? 柳やという小料理屋がありますからね、先生、このごろは柳やのおステさんと大あつあつで、いりびたりだ、かなわねえ」
 駅へ行き、切符を買い、東京行きの省線に乗り、阿佐ヶ谷で降りて、北口、約一丁半、金物屋さんのところから右へ曲って半丁、柳やは、ひっそりしていた。
「たったいまお帰りになりましたが、大勢さんで、これから西荻《にしおぎ》のチドリのおばさんのところへ行って夜明しで飲むんだ、とかおっしゃっていましたよ」
 私よりも年が若くて、落ちついて、上品で、親切そうな、これがあの、おステさんとかいうあのひとと大あつあつの人なのかしら。
「チドリ? 西荻のどのへん?」
 心細くて、涙が出そうになった。自分がいま、気が狂っているのではないかしら、とふと思った。
「よく存じませんのですけどね、何でも西荻の駅を降りて、南口の、左にはいったところだとか、とにかく、交番でお聞きになったら、わかるんじゃないでしょうか。何せ、一軒ではおさまらないひとで、チドリに行く前にまたどこかにひっかかっているかも知れませんですよ」
「チドリへ行ってみます。さようなら」
 また、逆もどり。阿佐ヶ谷から省線で立川行きに乗り、荻窪、西荻窪、駅の南口で降りて、こがらしに吹かれてうろつき、交番を見つけて、チドリの方角をたずねて、それから、教えられたとおりの夜道を走るようにして行って、チドリの青い燈籠《とうろう》を見つけて、ためらわず格子戸をあけた。
 土間があって、それからすぐ六畳間くらいの部屋があって、たばこの煙で濛々《もうもう》として、十人ばかりの人間が、部屋の大きな卓をかこんで、わあっわあっとひどく騒がしいお酒盛りをしていた。私より若いくらいのお嬢さんも三人まじって、たばこを吸い、お酒を飲んでいた。
 私は土間に立って、見渡し、見つけた。そうして、夢見るような気持ちになった。ちがうのだ。六年。まるっきり、もう、違ったひとになっているのだ。
 これが、あの、私の虹《にじ》、M・C、私の生き甲斐《がい》の、あのひとであろうか。六年。蓬髪《ほうはつ》は昔のままだけれども哀れに赤茶けて薄くなっており、顔は黄色くむくんで、眼のふちが赤くただれて、前歯が抜け落ち、絶えず口をもぐもぐさせて、一匹の老猿が背中を丸くして部屋の片隅《かたすみ》に坐っている感じであった。
 お嬢さんのひとりが私を見とがめ、目で上原さんに私の来ている事を知らせた。あのひとは坐ったまま細長い首をのばして私のほうを見て、何の表情も無く、顎《あご》であがれという合図をした。一座は、私に何の関心も無さそうに、わいわいの大騒ぎをつづけ、それでも少しずつ席を詰めて、上原さんのすぐ右隣りに私の席をつくってくれた。
 私は黙って坐った。上原さんは、私のコップにお酒をなみなみといっぱい注いでくれて、それからご自分のコップにもお酒を注ぎ足して、
「乾杯」
 としゃがれた声で低く言った。
 二つのコップが、力弱く触れ合って、カチと悲しい音がした。
 ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、と誰かが言って、それに応じてまたひとりが、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、と言い、カチンと音高くコップを打ち合せてぐいと飲む。ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、とあちこちから、その出鱈目《でたらめ》みたいな歌が起って、さかんにコップを打ち合せて乾杯をしている。そんなふざけ切ったリズムでもってはずみをつけて、無理にお酒を喉《のど》に流し込んでいる様子であった。
「じゃ、失敬」
 と言って、よろめきながら帰るひとがあるかと思うと、また、新客がのっそりはいって来て、上原さんにちょっと会釈しただけで、一座に割り込む。
「上原さん、あそこのね、上原さん、あそこのね、あああ、というところですがね、あれは、どんな工合《ぐあ》いに言ったらいいんですか? あ、あ、あ、ですか? ああ、あ、ですか?」
 と乗り出してたずねているひとは、たしかに私もその舞台顔に見覚えのある新劇俳優の藤田である。
「ああ、あ、だ。ああ、あ、チドリの酒は、安くねえ、といったような塩梅《あんばい》だね」
 と上原さん。
「お金の事ばっかり」
 とお嬢さん。
「二羽の雀《すずめ》は一銭、とは、ありゃ高いんですか? 安いんですか?」
 と若い紳士。
「一厘も残りなく償わずば、という言葉もあるし、或者《あるもの》には五タラント、或者には二タラント、或者には一タラントなんて、ひどくややこしい譬話《たとえばなし》もあるし、キリストも勘定はなかなかこまかいんだ」
 と別の紳士。
「それに、あいつあ酒飲みだったよ。妙にバイブルには酒の譬話が多いと思っていたら、果せるかなだ、視《み》よ、酒を好む人、と非難されたとバイブルに録《しる》されてある。酒を飲む人でなくて、酒を好む人というんだから、相当な飲み手だったに違いねえのさ。まず、一升飲みかね」
 ともうひとりの紳士。
「よせ、よせ。ああ、あ、汝《なんじ》らは道徳におびえて、イエスをダシに使わんとす。チエちゃん、飲もう。ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ」
 と上原さん、一ばん若くて美しいお嬢さんと、カチンと強くコップを打ち合せて、ぐっと飲んで、お酒が口角からしたたり落ちて、顎が濡《ぬ》れて、それをやけくそみたいに乱暴に掌で拭《ぬぐ》って、それから大きいくしゃみを五つも六つも続けてなさった。
 私はそっと立って、お隣りの部屋へ行き、病身らしく蒼白《あおじろ》く痩《や》せたおかみさんに、お手洗いをたずね、また帰りにその部屋をとおると、さっきの一ばんきれいで若いチエちゃんとかいうお嬢さんが、私を待っていたような恰好《かっこう》で立っていて
「おなかが、おすきになりません?」
 と親しそうに笑いながら、尋ねた。
「ええ、でも、私、パンを持ってまいりましたから」
「何もございませんけど」
 と病身らしいおかみさんは、だるそうに横坐りに坐って長火鉢に寄りかかったままで言う。
「この部屋で、お食事をなさいまし。あんな呑《の》んべえさんたちの相手をしていたら、一晩中なにも食べられやしません。お坐りなさい、ここへ。チエ子さんも一緒に」
「おうい、キヌちゃん、お酒が無い」
 とお隣りで紳士が叫ぶ。
「はい、はい」
 と返辞して、そのキヌちゃんという三十歳前後の粋《いき》な縞《しま》の着物を着た女中さんが、お銚子《ちょうし》をお盆に十本ばかり載せて、お勝手からあらわれる。
「ちょっと」
 とおかみさんは呼びとめて、
「ここへも二本」
 と笑いながら言い、
「それからね、キヌちゃん、すまないけど、裏のスズヤさんへ行って、うどんを二つ大いそぎでね」
 私とチエちゃんは長火鉢の傍《そば》にならんで坐って、手をあぶっていた。
「お蒲団《ふとん》をおあてなさい。寒くなりましたね。お飲みになりませんか」
 おかみさんは、ご自分のお茶のお茶碗《ちゃわん》にお銚子のお酒をついで、それから別の二つのお茶碗にもお酒を注いだ。
 そうして私たち三人は黙って飲んだ。
「みなさん、お強いのね」
 とおかみさんは、なぜだか、しんみりした口調で言った。
 がらがらと表の戸のあく音が聞えて、
「先生、持ってまいりました」
 という若い男の声がして、
「何せ、うちの社長ったら、がっちりしていますからね、二万円と言ってねばったのですが、やっと一万円」
「小切手か?」
 と上原さんのしゃがれた声。
「いいえ、現なまですが。すみません」
「まあ、いいや、受取りを書こう」
 ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、の乾杯の歌が、そのあいだも一座に於《お》いて絶える事無くつづいている。
「直《なお》さんは?」
 と、おかみさんは真面目《まじめ》な顔をしてチエちゃんに尋ねる。私は、どきりとした。
「知らないわ。直さんの番人じゃあるまいし」
 と、チエちゃんは、うろたえて、顔を可憐《かれん》に赤くなさった。
「この頃、何か上原さんと、まずい事でもあったんじゃないの? いつも、必ず、一緒だったのに」
 とおかみさんは、落ちついて言う。
「ダンスのほうが、すきになったんですって。ダンサアの恋人でも出来たんでしょうよ」
「直さんたら、まあ、お酒の上にまた女だから、始末が悪いね」
「先生のお仕込みですもの」
「でも、直さんのほうが、たちが悪いよ。あんなお坊《ぼっ》ちゃんくずれは、……」
「あの」
 私は微笑《ほほえ》んで口をはさんだ。黙っていては、かえってこのお二人に失礼なことになりそうだと思ったのだ。
「私、直治の姉なんですの」
 おかみさんは驚いたらしく、私の顔を見直したが、チエちゃんは平気で、
「お顔がよく似ていらっしゃいますもの。あの土間の暗いところにお立ちになっていたのを見て、私、はっと思ったわ。直さんかと」
「左様でございますか」
 とおかみさんは語調を改めて、
「こんなむさくるしいところへ、よくまあ。それで? あの、上原さんとは、前から?」
「ええ、六年前にお逢いして、……」
 言い澱《よど》み、うつむき、涙が出そうになった。
「お待ちどおさま」
 女中さんが、おうどんを持って来た。
「召し上れ。熱いうちに」
 とおかみさんはすすめる。
「いただきます」
 おうどんの湯気に顔をつっ込み、するするとおうどんを啜《すす》って、私は、いまこそ生きている事の侘《わ》びしさの、極限を味わっているような気がした。
 ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、と低く口ずさみながら、上原さんが私たちの部屋にはいって来て、私の傍にどかりとあぐらをかき、無言でおかみさんに大きい封筒を手渡した。
「これだけで、あとをごまかしちゃだめですよ」
 おかみさんは、封筒の中を見もせずに、それを長火鉢の引出しに仕舞い込んで笑いながら言う。
「持って来るよ。あとの支払いは、来年だ」
「あんな事を」
 一万円。それだけあれば、電球がいくつ買えるだろう。私だって、それだけあれば、一年らくに暮せるのだ。
 ああ、何かこの人たちは、間違っている。しかし、この人たちも、私の恋の場合と同じ様に、こうでもしなければ、生きて行かれないのかも知れない。人はこの世の中に生れて来た以上は、どうしても生き切らなければいけないものならば、この人たちのこの生き切るための姿も、憎むべきではないかも知れぬ。生きている事。生きている事。ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。
「とにかくね」
 と隣室
前へ 次へ
全20ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング