の紳士がおっしゃる。
「これから東京で生活して行くにはだね、コンチワァ、という軽薄きわまる挨拶《あいさつ》が平気で出来るようでなければ、とても駄目《だめ》だね。いまのわれらに、重厚だの、誠実だの、そんな美徳を要求するのは、首くくりの足を引っぱるようなものだ。重厚? 誠実? ペッ、プッだ。生きて行けやしねえじゃないか。もしもだね、コンチワァを軽く言えなかったら、あとは、道が三つしか無いんだ、一つは帰農だ、一つは自殺、もう一つは女のヒモさ」
「その一つも出来やしねえ可哀想《かわいそう》な野郎には、せめて最後の唯一の手段」
 と別な紳士が、
「上原二郎にたかって、痛飲」
 ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ。
「泊るところが、ねえんだろ」
 と、上原さんは、低い声でひとりごとのようにおっしゃった。
「私?」
 私は自身に鎌首《かまくび》をもたげた蛇《へび》を意識した。敵意。それにちかい感情で、私は自分のからだを固くしたのである。
「ざこ寝が出来るか。寒いぜ」
 上原さんは、私の怒りに頓着《とんちゃく》なく呟《つぶや》く。
「無理でしょう」
 とおかみさんは、口をはさみ、
「お可哀そうよ」
 ちぇっ、と上原さんは舌打ちして、
「そんなら、こんなところへ来なけれあいいんだ」
 私は黙っていた。このひとは、たしかに、私のあの手紙を読んだ。そうして、誰よりも私を愛している、と、私はそのひとの言葉の雰囲気《ふんいき》から素早く察した。
「仕様がねえな。福井さんのとこへでも、たのんでみようかな。チエちゃん、連れて行ってくれないか。いや、女だけだと、途中が危険か。やっかいだな。かあさん、このひとのはきものを、こっそりお勝手のほうに廻《まわ》して置いてくれ。僕が送りとどけて来るから」
 外は深夜の気配だった。風はいくぶんおさまり、空にいっぱい星が光っていた。私たちは、ならんで歩きながら、
「私、ざこ寝でも何でも、出来ますのに」
 上原さんは、眠そうな声で、
「うん」
 とだけ言った。
「二人っきりに、なりたかったのでしょう。そうでしょう」
 私がそう言って笑ったら、上原さんは、
「これだから、いやさ」
 と口をまげて、にが笑いなさった。私は自分がとても可愛がられている事を、身にしみて意識した。
「ずいぶん、お酒を召し上りますのね。毎晩ですの?」
「そう、毎日。朝からだ」
「おいしいの? お酒が」
「まずいよ」
 そう言う上原さんの声に、私はなぜだか、ぞっとした。
「お仕事は?」
「駄目です。何を書いても、ばかばかしくって、そうして、ただもう、悲しくって仕様が無いんだ。いのちの黄昏《たそがれ》。人類の黄昏。芸術の黄昏。それも、キザだね」
「ユトリロ」
 私は、ほとんど無意識にそれを言った。
「ああ、ユトリロ。まだ生きていやがるらしいね。アルコールの亡者《もうじゃ》。死骸《しがい》だね。最近十年間のあいつの絵は、へんに俗っぽくて、みな駄目」
「ユトリロだけじゃないんでしょう? 他《ほか》のマイスターたちも全部、……」
「そう、衰弱。しかし、新しい芽も、芽のままで衰弱しているのです。霜。フロスト。世界中に時ならぬ霜が降りたみたいなのです」
 上原さんは私の肩を軽く抱いて、私のからだは上原さんの二重廻しの袖《そで》で包まれたような形になったが、私は拒否せず、かえってぴったり寄りそってゆっくり歩いた。
 路傍の樹木の枝。葉の一枚も附《つ》いていない枝、ほそく鋭く夜空を突き刺していて、
「木の枝って、美しいものですわねえ」
 と思わずひとりごとのように言ったら、
「うん、花と真黒い枝の調和が」
 と少しうろたえたようにしておっしゃった。
「いいえ、私、花も葉も芽も、何もついていない、こんな枝がすき。これでも、ちゃんと生きているのでしょう。枯枝とちがいますわ」
「自然だけは、衰弱せずか」
 そう言って、また烈《はげ》しいくしゃみをいくつもいくつも続けてなさった。
「お風邪じゃございませんの?」
「いや、いや、さにあらず。実はね、これは僕の奇癖でね、お酒の酔いが飽和点に達すると、たちまちこんな工合《ぐあい》のくしゃみが出るんです。酔いのバロメーターみたいなものだね」
「恋は?」
「え?」
「どなたかございますの? 飽和点くらいにすすんでいるお方が」
「なんだ、ひやかしちゃいけない。女は、みな同じさ。ややこしくていけねえ。ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、実は、ひとり、いや、半人くらいある」
「私の手紙、ごらんになって?」
「見た」
「ご返事は?」
「僕は貴族は、きらいなんだ。どうしても、どこかに、鼻持ちならない傲慢《ごうまん》なところがある。あなたの弟の直さんも、貴族としては、大出来の男なんだが、時々、ふっと、とても附き合い切れない小生意気なところを見せる。僕は田舎の百姓の息子でね、こんな小川の傍をとおると必ず、子供のころ、故郷の小川で鮒《ふな》を釣った事や、めだかを掬《すく》った事を思い出してたまらない気持になる」
 暗闇《くらやみ》の底で幽《かす》かに音立てて流れている小川に、沿った路《みち》を私たちは歩いていた。
「けれども、君たち貴族は、そんな僕たちの感傷を絶対に理解できないばかりか、軽蔑《けいべつ》している。」
「ツルゲーネフは?」
「あいつは貴族だ。だからいやなんだ」
「でも、猟人日記、……」
「うん、あれだけは、ちょっとうまいね」
「あれは、農村生活の感傷、……」
「あの野郎は田舎貴族、というところで妥協しようか」
「私もいまでは田舎者ですわ。畑を作っていますのよ。田舎の貧乏人」
「今でも、僕をすきなのかい」
 乱暴な口調であった。
「僕の赤ちゃんが欲しいのかい」
 私は答えなかった。
 岩が落ちて来るような勢いでそのひとの顔が近づき、遮二無二《しゃにむに》私はキスされた。性慾《せいよく》のにおいのするキスだった。私はそれを受けながら、涙を流した。屈辱の、くやし涙に似ているにがい涙であった。涙はいくらでも眼からあふれ出て、流れた。
 また、二人ならんで歩きながら、
「しくじった。惚《ほ》れちゃった」
 とそのひとは言って、笑った。
 けれども、私は笑う事が出来なかった。眉《まゆ》をひそめて、口をすぼめた。
 仕方が無い。
 言葉で言いあらわすなら、そんな感じのものだった。私は自分が下駄《げた》を引きずってすさんだ歩き方をしているのに気がついた。
「しくじった」
 とその男は、また言った。
「行くところまで行くか」
「キザですわ」
「この野郎」
 上原さんは私の肩をとんとこぶしで叩《たた》いて、また大きいくしゃみをなさった。
 福井さんとかいうお方のお宅では、みなさんがもうおやすみになっていらっしゃる様子であった。
「電報、電報。福井さん、電報ですよ」
 と大声で言って、上原さんは玄関の戸をたたいた。
「上原か?」
 と家の中で男のひとの声がした。
「そのとおり。プリンスとプリンセスと一夜の宿をたのみに来たのだ。どうもこう寒いと、くしゃみばかり出て、せっかくの恋の道行《みちゆき》もコメディになってしまう」
 玄関の戸が内からひらかれた。もうかなりの、五十歳を越したくらいの、頭の禿《は》げた小柄《こがら》なおじさんが、派手なパジャマを着て、へんな、はにかむような笑顔で私たちを迎えた。
「たのむ」
 と上原さんは一こと言って、マントも脱がずにさっさと家の中へはいって、
「アトリエは、寒くていけねえ。二階を借りるぜ。おいで」
 私の手をとって、廊下をとおり突き当りの階段をのぼって、暗いお座敷にはいり、部屋の隅《すみ》のスイッチをパチとひねった。
「お料理屋のお部屋みたいね」
「うん、成金趣味さ。でも、あんなヘボ画《え》かきにはもったいない。悪運が強くて罹災《りさい》も、しやがらねえ。利用せざるべからずさ。さあ、寝よう、寝よう」
 ご自分のお家みたいに、勝手に押入れをあけてお蒲団《ふとん》を出して敷いて、
「ここへ寝給《ねたま》え。僕は帰る。あしたの朝、迎えに来ます。便所は、階段を降りて、すぐ右だ」
 だだだだと階段からころげ落ちるように騒々しく下へ降りて行って、それっきり、しんとなった。
 私はまたスイッチをひねって、電燈を消し、お父上の外国土産の生地で作ったビロードのコートを脱ぎ、帯だけほどいて着物のままでお床へはいった。疲れている上に、お酒を飲んだせいか、からだがだるく、すぐにうとうととまどろんだ。
 いつのまにか、あのひとが私の傍に寝ていらして、……私は一時間ちかく、必死の無言の抵抗をした。
 ふと可哀そうになって、放棄した。
「こうしなければ、ご安心が出来ないのでしょう?」
「まあ、そんなところだ」
「あなた、おからだを悪くしていらっしゃるんじゃない? 喀血《かっけつ》なさったでしょう」
「どうしてわかるの? 実はこないだ、かなりひどいのをやったのだけど、誰にも知らせていないんだ」
「お母さまのお亡くなりになる前と、おんなじ匂《にお》いがするんですもの」
「死ぬ気で飲んでいるんだ。生きているのが、悲しくて仕様が無いんだよ。わびしさだの、淋しさだの、そんなゆとりのあるものでなくて、悲しいんだ。陰気くさい、嘆きの溜息《ためいき》が四方の壁から聞えている時、自分たちだけの幸福なんてある筈《はず》は無いじゃないか。自分の幸福も光栄も、生きているうちには決して無いとわかった時、ひとは、どんな気持になるものかね。努力。そんなものは、ただ、飢餓の野獣の餌食《えじき》になるだけだ。みじめな人が多すぎるよ。キザかね」
「いいえ」
「恋だけだね。おめえの手紙のお説のとおりだよ」
「そう」
 私のその恋は、消えていた。
 夜が明けた。
 部屋が薄明るくなって、私は、傍で眠っているそのひとの寝顔をつくづく眺《なが》めた。ちかく死ぬひとのような顔をしていた。疲れはてているお顔だった。
 犠牲者の顔。貴い犠牲者。
 私のひと。私の虹《にじ》。マイ、チャイルド。にくいひと。ずるいひと。
 この世にまたと無いくらいに、とても、とても美しい顔のように思われ、恋があらたによみがえって来たようで胸がときめき、そのひとの髪を撫《な》でながら、私のほうからキスをした。
 かなしい、かなしい恋の成就《じょうじゅ》。
 上原さんは、眼をつぶりながら私をお抱きになって、
「ひがんでいたのさ。僕は百姓の子だから」
 もうこのひとから離れまい。
「私、いま幸福よ。四方の壁から嘆きの声が聞えて来ても、私のいまの幸福感は、飽和点よ。くしゃみが出るくらい幸福だわ」
 上原さんは、ふふ、とお笑いになって、
「でも、もう、おそいなあ。黄昏だ」
「朝ですわ」
 弟の直治は、その朝に自殺していた。

     七

 直治の遺書。

 姉さん。
 だめだ。さきに行くよ。
 僕《ぼく》は自分がなぜ生きていなければならないのか、それが全然わからないのです。
 生きていたい人だけは、生きるがよい。
 人間には生きる権利があると同様に、死ぬる権利もある筈です。
 僕のこんな考え方は、少しも新しいものでも何でも無く、こんな当り前の、それこそプリミチヴな事を、ひとはへんにこわがって、あからさまに口に出して言わないだけなんです。
 生きて行きたいひとは、どんな事をしても、必ず強く生き抜くべきであり、それは見事で、人間の栄冠とでもいうものも、きっとその辺にあるのでしょうが、しかし、死ぬことだって、罪では無いと思うんです。
 僕は、僕という草は、この世の空気と陽《ひ》の中に、生きにくいんです。生きて行くのに、どこか一つ欠けているんです。足りないんです。いままで、生きて来たのも、これでも、精一ぱいだったのです。
 僕は高等学校へはいって、僕の育って来た階級と全くちがう階級に育って来た強くたくましい草の友人と、はじめて附《つ》き合い、その勢いに押され、負けまいとして、麻薬を用い、半狂乱になって抵抗しました。それから兵隊になって、やはりそこでも、生きる最後の手段として阿片《アヘ
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