傍に立ち、涙ぐんで空を見上げたら、もうそれは夜明けちかい空の気配であった。
風呂場で、手と足と顔を洗い、お母さまに逢《あ》うのが何だかおっかなくって、お風呂場の三畳間で髪を直したりしてぐずぐずして、それからお勝手に行き、夜のまったく明けはなれるまで、お勝手の食器の用も無い整理などしていた。
夜が明けて、お座敷のほうに、そっと足音をしのばせて行って見ると、お母さまは、もうちゃんとお着換えをすましておられて、そうして支那間のお椅子《いす》に、疲れ切ったようにして腰かけていらした。私を見て、にっこりお笑いになったが、そのお顔は、びっくりするほど蒼《あお》かった。
私は笑わず、黙って、お母さまのお椅子のうしろに立った。
しばらくしてお母さまが、
「なんでもない事だったのね。燃やすための薪だもの」
とおっしゃった。
私は急に楽しくなって、ふふんと笑った。機《おり》にかないて語《かた》る言《ことば》は銀《ぎん》の彫刻物《ほりもの》に金《きん》の林檎《りんご》を嵌《は》めたるが如《ごと》し、という聖書の箴言《しんげん》を思い出し、こんな優しいお母さまを持っている自分の幸福を、つくづく神さ
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