すが、憎い気はちっとも無いのですし、あのひとだって淋しがりの、とてもいいところをたくさん持っているひとなのですから、もう何も言いません。
 ただ、僕は姉さんに、僕がそのひとの奥さんにこがれて、うろうろして、つらかったという事だけを知っていただいたらいいのです。だから、姉さんはそれを知っても、別段、誰かにその事を訴え、弟の生前の思いをとげさせてやるとか何とか、そんなキザなおせっかいなどなさる必要は絶対に無いのですし、姉さんおひとりだけが知って、そうして、こっそり、ああ、そうか、と思って下さったらそれでいいんです。なおまた慾を言えば、こんな僕の恥ずかしい告白に依《よ》って、せめて姉さんだけでも、僕のこれまでの生命《いのち》の苦しさを、さらに深くわかって下さったら、とても僕は、うれしく思います。
 僕はいつか、奥さんと、手を握り合った夢を見ました。そうして奥さんも、やはりずっと以前から僕を好きだったのだという事を知り、夢から醒《さ》めても、僕の手のひらに奥さんの指のあたたかさが残っていて、僕はもう、これだけで満足して、あきらめなければなるまいと思いました。道徳がおそろしかったのではなく、僕に
前へ 次へ
全193ページ中185ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング