はないけれども、十年前、お父上が西片町のお家で亡くなられてから、蛇をとても恐れていらっしゃる。お父上の御臨終の直前に、お母さまが、お父上の枕元《まくらもと》に細い黒い紐《ひも》が落ちているのを見て、何気なく拾おうとなさったら、それが蛇だった。するすると逃げて、廊下に出てそれからどこへ行ったかわからなくなったが、それを見たのは、お母さまと、和田の叔父さまとお二人きりで、お二人は顔を見合せ、けれども御臨終のお座敷の騒ぎにならぬよう、こらえて黙っていらしたという。私たちも、その場に居合せていたのだが、その蛇の事は、だから、ちっとも知らなかった。
けれども、そのお父上の亡くなられた日の夕方、お庭の池のはたの、木という木に蛇がのぼっていた事は、私も実際に見て知っている。私は二十九のばあちゃんだから、十年前のお父上の御逝去《ごせいきょ》の時は、もう十九にもなっていたのだ。もう子供では無かったのだから、十年|経《た》っても、その時の記憶はいまでもはっきりしていて、間違いは無い筈《はず》だが、私がお供えの花を剪《き》りに、お庭のお池のほうに歩いて行って、池の岸のつつじのところに立ちどまって、ふと見る
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