和田の叔父さまにお葉書を差し上げてから、一週間ばかりして、和田の叔父さまのお取計《とりはから》いで、以前侍医などしていらした三宅《みやけ》さまの老先生が看護婦さんを連れて東京から御診察にいらして下さった。
老先生は私どもの亡くなったお父上とも御交際のあった方なので、お母さまは、たいへんお喜びの御様子だった。それに、老先生は昔からお行儀が悪く、言葉|遣《づか》いもぞんざいで、それがまたお母さまのお気に召しているらしく、その日は御診察など、そっちのけで何かとお二人で打ち解けた世間話に興じていらっしゃった。私がお勝手で、プリンをこしらえて、それをお座敷に持って行ったら、もうその間に御診察もおすみの様子で、老先生は聴診器をだらしなく頸飾《くびかざ》りみたいに肩にひっかけたまま、お座敷の廊下の籐椅子《とういす》に腰をかけ、
「僕などもね、屋台にはいって、うどんの立食いでさ。うまいも、まずいもありゃしません」
と、のんきそうに世間話をつづけていらっしゃる。お母さまも、何気ない表情で天井《てんじょう》を見ながら、そのお話を聞いていらっしゃる。なんでも無かったんだ、と私は、ほっとした。
「いかがでございました? この村の先生は、胸の左のほうに浸潤があるとかおっしゃっていましたけど?」
と私も急に元気が出て、三宅さまにおたずねしたら、老先生は、事もなげに、
「なに、大丈夫だ」
と軽くおっしゃる。
「まあ、よかったわね、お母さま」
と私は心から微笑して、お母さまに呼びかけ、
「大丈夫なんですって」
その時、三宅さまは籐椅子から、つと立ち上って支那間のほうへいらっしゃった。何か私に用事がありげに見えたので、私はそっとその後を追った。
老先生は支那間の壁掛の蔭《かげ》に行って立ちどまって、
「バリバリ音が聞えているぞ」
とおっしゃった。
「浸潤では、ございませんの?」
「違う」
「気管支カタルでは?」
私は、もはや涙ぐんでおたずねした。
「違う」
結核《テーベ》! 私はそれだと思いたくなかった。肺炎や浸潤や気管支カタルだったら、必ず私の力でなおしてあげる。けれども、結核だったら、ああ、もうだめかも知れない。私は足もとが、崩れて行くような思いをした。
「音、とても悪いの? バリバリ聞えてるの?」
心細さに、私はすすり泣きになった。
「右も左も全部だ」
「だって、お母さまは、まだお元気なのよ。ごはんだって、おいしいおいしいとおっしゃって、……」
「仕方がない」
「うそだわ。ね、そんな事ないんでしょう? バタやお卵や、牛乳をたくさん召し上ったら、なおるんでしょう? おからだに抵抗力さえついたら、熱だって下るんでしょう?」
「うん、なんでも、たくさん食べる事だ」
「ね? そうでしょう? トマトも毎日、五つくらいは召し上っているのよ」
「うん、トマトはいい」
「じゃあ、大丈夫ね? なおるわね?」
「しかし、こんどの病気は命取りになるかも知れない。そのつもりでいたほうがいい」
人の力で、どうしても出来ない事が、この世の中にたくさんあるのだという絶望の壁の存在を、生れてはじめて知ったような気がした。
「二年? 三年?」
私は震えながら小声でたずねた。
「わからない。とにかくもう、手のつけようが無い」
そうして、三宅さまは、その日は伊豆《いず》の長岡温泉に宿を予約していらっしゃるとかで、看護婦さんと一緒にお帰りになった。門の外までお見送りして、それから、夢中で引返してお座敷のお母さまの枕《まくら》もとに坐《すわ》り、何事も無かったように笑いかけると、お母さまは、
「先生は、なんとおっしゃっていたの?」
とおたずねになった。
「熱さえ下ればいいんですって」
「胸のほうは?」
「たいした事もないらしいわ。ほら、いつかのご病気の時みたいなのよ、きっと。いまに涼しくなったら、どんどんお丈夫になりますわ」
私は自分の嘘を信じようと思った。命取りなどというおそろしい言葉は、忘れようと思った。私には、このお母さまが、亡くなるという事は、それは私の肉体も共に消失してしまうような感じで、とても事実として考えられないことだった。これからは何も忘れて、このお母さまに、たくさんたくさんご馳走《ちそう》をこしらえて差し上げよう。おさかな。スウプ。罐詰《かんづめ》。レバ。肉汁。トマト。卵。牛乳。おすまし。お豆腐があればいいのに。お豆腐のお味噌汁《みそしる》。白い御飯。お餅《もち》。おいしそうなものは何でも、私の持物を皆売って、そうしてお母さまにご馳走してあげよう。
私は立って、支那間へ行った。そうして、支那間の寝椅子《ねいす》をお座敷の縁側ちかくに移して、お母さまのお顔が見えるように腰かけた。やすんでいらっしゃるお母さまのお顔は、ちっとも病人らしくなかった。
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