眼は美しく澄んでいるし、お顔色も生き生きしていらっしゃる。毎朝、規則正しく起床なさって洗面所へいらして、それからお風呂場の三畳でご自分で髪を結って、身じまいをきちんとなさって、それからお床に帰って、お床にお坐りのままお食事をすまし、それからお床に寝たり起きたり、午前中はずっと新聞やご本を読んでいらして、熱の出るのは午後だけである。
「ああ、お母さまは、お元気なのだ。きっと、大丈夫なのだ」
と私は、心の中で三宅さまのご診断を強く打ち消した。
十月になって、そうして菊の花の咲く頃になれば、など考えているうちに私は、うとうとと、うたた寝をはじめた。現実には、私はいちども見た事の無い風景なのに、それでも夢では時々その風景を見て、ああ、またここへ来たと思うなじみの森の中の湖のほとりに私は出た。私は、和服の青年と足音も無く一緒に歩いていた。風景全体が、みどり色の霧のかかっているような感じであった。そうして、湖の底に白いきゃしゃな橋が沈んでいた。
「ああ、橋が沈んでいる。きょうは、どこへも行けない。ここのホテルでやすみましょう。たしか、空《あ》いた部屋があった筈《はず》だ」
湖のほとりに、石のホテルがあった。そのホテルの石は、みどり色の霧でしっとり濡《ぬ》れていた。石の門の上に、金文字《きんもじ》でほそく、HOTEL SWITZERLAND と彫り込まれていた。SWI と読んでいるうちに、不意に、お母さまの事を思い出した。お母さまは、どうなさるのだろう。お母さまも、このホテルへいらっしゃるのかしら? と不審になった。そうして、青年と一緒に石の門をくぐり、前庭へはいった。霧の庭に、アジサイに似た赤い大きい花が燃えるように咲いていた。子供の頃、お蒲団《ふとん》の模様に、真赤《まっか》なアジサイの花が散らされてあるのを見て、へんに悲しかったが、やっぱり赤いアジサイの花って本当にあるものなんだと思った。
「寒くない?」
「ええ、少し。霧でお耳が濡れて、お耳の裏が冷たい」
と言って笑いながら、
「お母さまは、どうなさるのかしら」
とたずねた。
すると、青年は、とても悲しく慈愛深く微笑《ほほえ》んで、
「あのお方は、お墓の下です」
と答えた。
「あ」
と私は小さく叫んだ。そうだったのだ。お母さまは、もういらっしゃらなかったのだ。お母さまのお葬《とむら》いも、とっくに済ましていたのじゃないか。ああ、お母さまは、もうお亡くなりになったのだと意識したら、言い知れぬ凄《さび》しさに身震いして、眼がさめた。
ヴェランダは、すでに黄昏《たそがれ》だった。雨が降っていた。みどり色のさびしさは、夢のまま、あたり一面にただよっていた。
「お母さま」
と私は呼んだ。
静かなお声で、
「何してるの?」
というご返事があった。
私はうれしさに飛び上って、お座敷へ行き、
「いまね、私、眠っていたのよ」
「そう。何をしているのかしら、と思っていたの。永いおひる寝ね」
と面白そうにお笑いになった。
私はお母さまのこうして優雅に息づいて生きていらっしゃる事が、あまりうれしくて、ありがたくて、涙ぐんでしまった。
「御夕飯のお献立は? ご希望がございます?」
私は、少しはしゃいだ口調でそう言った。
「いいの。なんにも要らない。きょうは、九度五分にあがったの」
にわかに私は、ぺしゃんこにしょげた。そうして、途方にくれて薄暗い部屋の中をぼんやり見廻し、ふと、死にたくなった。
「どうしたんでしょう。九度五分なんて」
「なんでもないの。ただ、熱の出る前が、いやなのよ。頭がちょっと痛くなって、寒気《さむけ》がして、それから熱が出るの」
外は、もう、暗くなっていて、雨はやんだようだが、風が吹き出していた。灯をつけて、食堂へ行こうとすると、お母さまが、
「まぶしいから、つけないで」
とおっしゃった。
「暗いところで、じっと寝ていらっしゃるの、おいやでしょう」
と立ったまま、おたずねすると、
「眼をつぶって寝ているのだから、同じことよ。ちっとも、さびしくない。かえって、まぶしいのが、いやなの。これから、ずっと、お座敷の灯はつけないでね」
とおっしゃった。
私には、それもまた不吉な感じで、黙ってお座敷の灯を消して、隣りの間へ行き、隣りの間のスタンドに灯をつけ、たまらなく侘《わ》びしくなって、いそいで食堂へ行き、罐詰の鮭《さけ》を冷たいごはんにのせて食べたら、ぽろぽろと涙が出た。
風は夜になっていよいよ強く吹き、九時頃から雨もまじり、本当の嵐《あらし》になった。二、三日前に巻き上げた縁先の簾《すだれ》が、ばたんばたんと音をたてて、私はお座敷の隣りの間で、ローザルクセンブルグの「経済学入門」を奇妙な興奮を覚えながら読んでいた。これは私が、こないだお二階の直治の部屋
前へ
次へ
全49ページ中31ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング