で、両肩と胸が烈《はげ》しく浪打《なみう》ち、息も出来ない気持になるのだ。
もうこの上は、何としても私が上京して、上原さんにお目にかかろう、私の帆は既に挙げられて、港の外に出てしまったのだもの、立ちつくしているわけにゆかない、行くところまで行かなければならない、とひそかに上京の心支度をはじめたとたんに、お母さまの御様子が、おかしくなったのである。
一夜、ひどいお咳《せき》が出て、お熱を計ってみたら、三十九度あった。
「きょう、寒かったからでしょう。あすになれば、なおります」
とお母さまは、咳《せ》き込みながら小声でおっしゃったが、私には、どうも、ただのお咳ではないように思われて、あすはとにかく下の村のお医者に来てもらおうと心にきめた。
翌《あく》る朝、お熱は三十七度にさがり、お咳もあまり出なくなっていたが、それでも私は、村の先生のところへ行って、お母さまが、この頃にわかにお弱りになったこと、ゆうべからまた熱が出て、お咳も、ただの風邪のお咳と違うような気がすること等《など》を申し上げて、御診察をお願いした。
先生は、ではのちほど伺いましょう、これは到来物でございますが、とおっしゃって応接間の隅《すみ》の戸棚《とだな》から梨《なし》を三つ取り出して私に下さった。そうして、お昼すこし過ぎ、白絣《しろがすり》に夏羽織をお召しになって診察にいらした。れいの如く、ていねいに永い事、聴診や打診をなさって、それから私のほうに真正面に向き直り、
「御心配はございません。おくすりを、お飲みになれば、なおります」
とおっしゃる。
私は妙に可笑《おか》しく、笑いをこらえて、
「お注射は、いかがでしょうか」
とおたずねすると、まじめに、
「その必要は、ございませんでしょう。おかぜでございますから、しずかにしていらっしゃると、間もなくおかぜが抜けますでしょう」
とおっしゃった。
けれども、お母さまのお熱は、それから一週間|経《た》っても下らなかった。咳はおさまったけれども、お熱のほうは、朝は七度七分くらいで、夕方になると九度になった。お医者は、あの翌日から、おなかをこわしたとかで休んでいらして、私がおくすりを頂きに行って、お母さまのご容態の思わしくない事を看護婦さんに告げて、先生に伝えていただいても、普通のお風邪で心配はありません、という御返事で、水薬と散薬をくださる。
直治は相変らずの東京出張で、もう十日あまり帰らない。私ひとりで、心細さのあまり和田の叔父さまへ、お母さまの御様子の変った事を葉書にしたためて知らせてやった。
発熱してかれこれ十日目に、村の先生が、やっと腹工合《はらぐあ》いがよろしくなりましたと言って、診察しにいらした。
先生は、お母さまのお胸を注意深そうな表情で打診なさりながら、
「わかりました、わかりました」
とお叫びになり、それから、また私のほうに真正面に向き直られて、
「お熱の原因が、わかりましてございます。左肺に浸潤を起しています。でも、ご心配は要りません。お熱は、当分つづくでしょうけれども、おしずかにしていらっしゃったら、ご心配はございません」
とおっしゃっる。
そうかしら? と思いながらも、溺《おぼ》れる者の藁《わら》にすがる気持もあって、村の先生のその診断に、私は少しほっとしたところもあった。
お医者がお帰りになってから、
「よかったわね、お母さま。ほんの少しの浸潤なんて、たいていのひとにあるものよ。お気持を丈夫にお持ちになっていさえしたら、わけなくなおってしまいますわ。ことしの夏の季候不順がいけなかったのよ。夏はきらい。かず子は、夏の花も、きらい」
お母さまはお眼をつぶりながらお笑いになり、
「夏の花の好きなひとは、夏に死ぬっていうから、私もことしの夏あたり死ぬのかと思っていたら、直治が帰って来たので、秋まで生きてしまった」
あんな直治でも、やはりお母さまの生きるたのみの柱になっているのか、と思ったら、つらかった。
「それでも、もう夏がすぎてしまったのですから、お母さまの危険期も峠を越したってわけなのね。お母さま、お庭の萩《はぎ》が咲いていますわ。それから、女郎花《おみなえし》、われもこう、桔梗《ききょう》、かるかや、芒《すすき》。お庭がすっかり秋のお庭になりましたわ。十月になったら、きっとお熱も下るでしょう」
私は、それを祈っていた。早くこの九月の、蒸暑い、謂《い》わば残暑の季節が過ぎるといい。そうして、菊が咲いて、うららかな小春|日和《びより》がつづくようになると、きっとお母さまのお熱も下ってお丈夫になり、私もあのひとと逢《あ》えるようになって、私の計画も大輪の菊の花のように見事に咲き誇る事が出来るかも知れないのだ。ああ、早く十月になって、そうしてお母さまのお熱が下るとよい。
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