作家の像
太宰治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)沈吟《ちんぎん》
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 なんの随筆の十枚くらい書けないわけは無いのであるが、この作家は、もう、きょうで三日も沈吟《ちんぎん》をつづけ、書いてはしばらくして破り、また書いては暫《しばら》くして破り、日本は今、紙類に不足している時ではあるし、こんなに破っては、もったいないと自分でも、はらはらしながらそれでも、つい破ってしまう。
 言えないのだ。言いたいことが言えないのだ。言っていい事と言ってはならぬ事との区別が、この作家に、よくわからないのである。「道徳の適性」とでもいうべきものが、未《いま》だに呑み込めて居ない様子なのである。言いたい事は、山ほど在るのだ。実に、言いたい。その時ふと、誰かの声が聞える。「何を言ったって、君、結局は君の自己弁護じゃないか。」
 ちがう! 自己弁護なんかじゃ無いと、急いで否定し去っても、心の隅では、まあそんな事に成るのかも知れないな、と気弱く肯定しているものもあって、私は、書きかけの原稿用紙を二つに裂《さ》いて、更にまた、四つに裂く。
「私は、こういう随筆は、下手《へた》なのでは無いかと思う。」と書きはじめて、それからまた少し書きすすめていって、破る。「私には未だ随筆が書けないのかも知れない。」と書いて、また破る。「随筆には虚構は、許されないのであって、」と書きかけて、あわてて破る。どうしても、言いたい事が一つ在るのだが、何気なく書けない。
 目的の当の相手にだけ、あやまたず命中して、他の佳《よ》い人には、塵《ちり》ひとつお掛けしたくないのだ。私は不器用で、何か積極的な言動に及ぶと、必ず、無益に人を傷つける。友人の間では、私の名前は、「熊の手」ということになっている。いたわり撫《な》でるつもりで、ひっ掻いている。塚本虎二氏の、「内村鑑三の思い出」を読んでいたら、その中に、
「或《ある》夏、信州の沓掛《くつかけ》の温泉で、先生がいたずらに私の子供にお湯をぶっかけられた所、子供が泣き出した。先生は悲し相な顔をして、『俺のすることは皆こんなもんだ、親切を仇にとられる。』と言われた。」
 という一章が在ったけれど、私はそれを読んで、暫時、たまらなかった。川の向う岸に石を投げようとして、大きくモオションすると、すぐ隣に立っている佳人に肘《ひじ》が当って、佳人は、あいたた、と悲鳴を挙げる。私は冷汗流して、いかに陳弁しても、佳人は不機嫌な顔をしている。私の腕は、人一倍長いのかも知れない。
 随筆は小説と違って、作者の言葉も「なま」であるから、よっぽど気を付けて書かない事には、あらぬ隣人をさえ傷つける。決してその人の事を言っているのでは無いのだ。大袈裟《おおげさ》な言いかたをすれば、私はいつでも、「人間歴史の実相」を、天に報告しているのだ。私怨《しえん》では無いのだ。けれども、そう言うとまた、人は笑って私を信じない。
 私は、よっぽど、甘い男ではないかと思う。謂《い》わば、「観念野郎」である。言動を為すに当って、まず観念が先に立つ。一夜、酒を呑むに当っても、何かと理窟《りくつ》をつけて呑んでいる。きのうも私は、阿佐ヶ谷へ出て酒を呑んだが、それには、こんな経緯が在るのだ。
 私は、この新聞(都新聞)に送る随筆を書いていた。言いたい事が在ったのだけれど、それが、どうしても言えず、これが随筆でなく、小説だったら、いくらでも濶達《かったつ》に書けるのだが、と一箇月まえから腹案中の短篇小説を反芻《はんすう》してみて何やら楽しく、書くんだったら小説として、この現在の鬱屈の心情を吐露したい。それまでは大事に、しまって置きたい。その一端を、いま随筆として発表しても、言葉が足らず、人に誤解されて、あげ足とられ、喧嘩《けんか》をふっかけられては、つまらない。私は、自重していたいのである。ここは何とかして、愚色を装い、
「本日は晴天なり、れいの散歩など試みしに、紅梅、早も咲きたり、天地有情、春あやまたず再来す」
 の調子で、とぼけ切らなければならぬ、とも思うのだが、私は甚《はなは》だ不器用で、うまく感情を蓋《おお》い隠すことが出来ないたちなのである。うれしい事が在ると、つい、にこにこしてしまう。つまらない失敗をすると、どうしても、浮かぬ顔つきになってしまう。とぼける事が、至難なのである。こう書いた。
「誰もそれを認めてくれなくても、自分ひとりでは、一流の道を歩こうと努めているわけである。だから毎日、要らない苦労を、たいへんしなければならぬわけである。自分でも、ばかばかしいと思うことがある。ひとりで赤面していることもある。
 ちっとも流行しないが、自分では、相当のもののつもりで出処進退、つつしみつつしみ言動している。大事のまえの小事には、戒心の要がある。つ
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