まらぬ事で蹉跌《さてつ》してはならぬ。常住坐臥に不愉快なことがあったとしても、腹をさすって、笑っていなければならぬ。いまに傑作を書く男ではないか、などと、もっともらしい口調で、間抜けた感慨を述べている。頭が、悪いのではないかと思う。
たまに新聞社から、随筆の寄稿をたのまれ、勇奮して取りかかるのであるが、これも駄目、あれも駄目と破り捨て、たかだか十枚前後の原稿に、三日も四日も沈吟している。流石《さすが》、と読者に膝《ひざ》を打たせるほどの光った随筆を書きたい様子なのである。あまり沈吟していたら、そのうちに、何がなんだか、わからなくなって来た。随筆というものが、どんなものだか、わからなくなってしまったのである。
本箱を捜して本を二冊取り出した。『枕草子』と『伊勢物語』の二冊である。これに拠って、日本古来の随筆の伝統を、さぐって見ようと思ったのである。何かにつけて愚鈍な男である。」
と、そこまでは、まず大過なかったのであるが、「けれども」と続けて一枚くらい書きかけ、これあいけないと、あわてて破った。もう、そのすぐ次に、うかと大事をもらすところであったのである。
一つ、書きたい短篇小説があるのである。そいつを書き上げる迄は、私に就《つ》いて、どんな印象をも人に与えたくないのである。なかなか、それは骨の折れることである。また、贅沢《ぜいたく》な趣味である、という事も、私は知っている。けれども、なるべくなら、私はそれまで隠れていたい。とぼけ切っていたい。それが私のような単純な男には、至難の業なのである。私は、きのうも思い悩んだ。こう、何気ない随筆の材料が無いものか。死んだ友人のことを書こうか。旅行の事を書こうか。日記を書こうか。私は日記というものを、いままでつけた事がない。つけることが出来ないのである。
一日中に起った事柄の、どれを省略すべきか、どれを記載すべきか、その取捨の限度が、わからないのである。勢い、なんでもかでも、全部を書くことになって、一日かいて、もうへとへとになるのである。正確に書きたいと思うから、なるべくは眠りに落ちる直前までの事を残さず書いてみたいし、実に、めんどうな事になるのである。それに、日記というものは、あらかじめ人に見られる日のことを考慮に入れて書くべきものか、神と自分と二人きりの世界で書くべきものか、そこの心掛けも、むずかしいのである。結局、日記帳は買い求めても、漫画をかいたり、友人の住所などを書き入れるくらいのもので、日々の出来事を記すことはできない。けれども、家の者は、何やら小さい手帖に日記をつけている様子であるから、これを借りて、それに私の註釈をつけようと決心したのである。
「おまえ、日記をつけているようだね。ちょっと貸しなさい。」と何気なさそうな口調で言ったのであるが、家の者は、どういうわけだか、がんとして応じない。
「貸さなくても、いいが、それでは僕は、酒を飲まなくてはならぬ。」頗《すこぶ》る唐突な結論のようであるが、そうでは無い。その他には、この随筆から逃れる路《みち》が無くなっているのである。ちゃんとした理由である。私は、理由が無ければ酒を飲まないことにしている。きのうは、そのような理由があったものだから私は、阿佐ヶ谷に鹿爪《しかつめ》らしい顔をして、酒を飲みに出かけたのである。阿佐ヶ谷の酒の店で、私は非常に用心して酒を飲んだ。私は、いま、大事を胸に抱懐しているのであるから、うっかりした事は出来ない。老大家のような落ち付きを真似して、静かに酒を飲んでいたのであるが、酔って来たら、からきし駄目になった。
与太者らしい二人の客を相手にして、「愛とは、何だ。わかるか? 愛とは、義務の遂行である。悲しいね。またいう、愛とは、道徳の固守である。更にいう、愛とは、肉体の抱擁である。いずれも聞くべき言ではある。そうかも知れない。正確かも知れない。けれども、もう一つ、もう一つ、何か在るのだ。いいか、愛とは、――おれにもわからない。そいつが、わかったら、な。」などと、大事もくそも無い。ふやけた事ばかり言って、やがて酔いつぶれた様子である。
底本:「太宰治全集10」ちくま文庫、筑摩書房
1989(平成元)年6月27日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
初出:「都新聞」
1940(昭和15)年3月25日〜27日
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2008年8月19日作成
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