れだ。なんの興も無い。
 二時間ちかくバスにゆられて、相川に着いた。ここも、やはり房州あたりの漁村の感じである。道が白っぽく乾いている。そうして、素知らぬ振りして生活を営んでいる。少しも旅行者を迎えてくれない。鞄をかかえて、うろうろしているのが恥ずかしいくらいである。なぜ、佐渡へなど来たのだろう。その疑問が、再び胸に浮ぶ。何も無いのがわかっている。はじめから、わかっている事ではないか。それでも、とうとう相川までやって来た。いまは日本は、遊ぶ時では無い。それも、わかっている。見物《けんぶつ》というのは、之は、どういう心理なのだろう。先日読んだワッサーマンの「四十の男」という小説の中に、「彼が旅に出かけようと思ったのは、もとより定《きま》った用事のためではなかったとしても、兎《と》も角《かく》それは内心の衝動だったのだ。彼は、その衝動を抑制して旅に出なかった[#「なかった」に傍点]時には、自己に忠実でなかったように思う。自己を欺《あざむ》いたように思う。見なかった美しい山水や、失われた可能と希望との思いが彼を悩ます。よし現存の幸福が如何《いか》に大きくとも、この償い難き喪失の感情は彼に永遠
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